1月13日(日)「ひとりの意義」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったとき召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた。」  (イザヤ51:2)

新約
 「すると王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」  (マタイ25:40)

  新約聖書には、「ひとり」ということが語られます。「このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえ受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18:5)。ひとりの世界は、現代社会とは正反対です。現代社会は数が問題です。一万の署名は一人の署名よりも価値があります。多数イコール真理なのです。民主主義では真理が問題ですが、何が真理かということで千、百の論議が出てくると、最後は投票つまり数で決着されます。そこで民主主義とは数だと誤解されるのです。

  教会でも会議が行われる時、最後は投票で決めますが、そこでも「一人の真理」を忘れてはいけません。もし教会で、イエスの言う「ひとり」が忘れられるなら、キリストの教会ではなくなるでしょう。

  ベンヤミンは、「真理とは人やものに名を与えることである」と言いました。確かに聖書には、「名」ということが大事な真理として出てきます。主の祈りの最初は、「願わくは御名をあがめさせたまえ」であります。「名」とは、私一人にしかないものです。このベンヤミンの「名の信仰」は、今述べた「一人の真理」と密接につながっています、いやほとんど同じです。

  今日、現代社会で何をもって新しい世界を築くのかと問われるなら、それはコンピューター社会と正反対の、「一人の真理」、「名の信仰」によって、新しい二十一世紀の世界を築くべきだと考えられます。今日、一番失われているもの、それは「名」であり、「一人の真理」であります。イエス・キリストが「これらの最も小さい者のひとり」と言ったのは、そのことです。この新しい世界を築く、基本的な真理は、あのイエスの語られた「迷う一匹の羊のたとえ」に表されている真理であります。

  皆さん、真理というものは、決して難しいものではありません。遠くにあるものでもありません。それは簡単で、単純で、身近にあります。「一人の真理、名の信仰」、何と単純ではありませんか。アルジェリアで、工場を作る時、そこには日本人はわずか、アルジェリア人だけではない、フランス人、韓国人、中国人あらゆる民族の人がいた、その時、指導者は、この「名の信仰」を思い出したと言います。「グッドモーニング、誰々さん」と名を呼ぶのだそうです。それはまさに、この「一人の真理」、「名の信仰」の実践的課題でした。新しい世界がそこから始まります。皆さん、私たちの日常生活における真理も同じではありませんか。一人一人の名を呼ぶこと、そこに真理が横たわっています。

  ではなぜ一人の名を呼ぶことが真理なのでしょう。それは神がひとりで、名をもっているからであります。
「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つ望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:4-6)。
上は神から、下は人間にいたるまで、この一つの真理は貫かれています。それは神において真理だから、私たち人間における真理でもあります。では多数はいらないのか、そうではありません。今日の旧約聖書のアブラハムの記事を見てください。

  「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったとき召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた」とあります。神は、アブラハムを一人において召し、そこから海の砂のように、空の星のように数多くの民を生み出させたのであります。一から多であります。どんな多くの数でも、必ずそれは一つから成り立っています。一人はすべてのもの基礎ではないでしょうか。

  皆さん、人生の中で、何か困難にぶつかって困り果てた時、その際には、目の前にある一人から始めなさい。そこに必ず解決が開かれます。イエスはマルタに言われました、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことで思い煩って苦しんでいる。しかし、なくてならないものは多くはない、いやたったひとつだけである」(ルカ10:41)と。あなたはそのたったひとつを見つけだせばいいのです。考えてもごらんなさい。何百何千とあっても、それは一つ、一つからできています。そのひとつを見出すことに解決があります。

  しかし、このひとつを見いだすのは、確かに簡単ですが、いともたやすいとは限りません。ひとりの神を信じることは、子供でもできる、たやすいことです。しかし、大学者も必ずしもできるとは限らないことです。その信仰の難しさとは、難解という意味ではありません。込み入って難しいのでもありません。その単純なことを、そのまま信じること、信じつづけることの難しさであります。しかし、祈りが助けになります。祈ることは、私たちの信仰を続けるための大切な助けであります。祈りましょう、祈り続けましょう。教会に祈りの群れがあります。誰が決めたわけでもありません。ひとりひとり聖霊に導かれて集まって来ているのです。その小さな群れが教会を支えています。そのように個々人の信仰を支えているのも、その人がひとり密室で祈るいのりであります。
   


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