12月30日(日)「最後と最初」説教要旨

           聖句
旧約
 「主はヨブの終わりを初めよりも多く恵まれた。」(ヨブ42:12)

新約
 「初めであり、終わりである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人ではなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難に会うであろう。死にいたるまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。耳ある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。」  (黙示録2:8-11)

  最後と最初は「最後のものが最初になるというように」、聖書ではくっついています。ただ自然の円環も似たように、一年の終わりは次の年の初めにくっついています。しかし、それは同じものがぐるぐるめぐる円環的な連続ですが、聖書では違います。たとえば死は最後です。自然では、死は終わりで、決して始まりにつながりません。けれども、今日の聖書に、「初めであり、終わりである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる」とあります。生ける神キリストは、初めであると共に終わりであります。イエスの死は復活につながるからです。それは自然の円環とは違います。一度死んで、無になり、再び新しいいのちによみがえるのです。ですから「スイスは人間の混乱と神の摂理によって今日ある」と言っても、人間の混乱から、神の摂理が機械的に生まれるのではなく、死と復活を経なければなりません。自然的移行と聖書的死の復活との違いをはっきりさせましょう。

  私たちは今一年の最後にいます。自然の暦によれば、何もしなくても、その翌日は、2013年元日になるはずです。しかし、それは本当の新しいものの始まりでしょうか。では何が新しくするのでしょうか。「人もしキリストにあらば、新に造られたものである。古きは過ぎ去り、見よ、新しくなった」(Ⅱコリント5:17)。「古きは過ぎ去り」と、「新しくなった」の間に、「見よ」とあります。それに対して、自然の連環は、この死と復活なしに、ただ同じものが続いてゆきます。そこでは第一に、習慣化して何の新しさのない、単調な継続だけがあります。新年は決して、新しさを保証しません。そこで「人もしキリストにあらば」を考えて見る必要があります。「キリストにあらば」は原語で「エン・クリスイトー」、英語でIn Christ「キリストの中に」です。あなたにとってキリストはどこにいますか。「上、高く天上」ですか。それともあなたの眼前ですか。そのいずれもキリストはあなたの外です。「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)。

  「真新会」という音楽の研究グループでは、「真理に立つ」ことが「新しくなる」ことだという信念をもっています。真に新しくなるのは、方法的に手を替え品を変えるのではありません。私たちで言えば、真に新しくなることは、「キリストの中に」入ることです。そうでないと、元日には何か新しい気分になっても、二日、三日と立つうちに化けの皮がはがれて、依然として古い自分が続いているということにならないでしょうか。真理に立つこと、キリストの中に入ること、それが真の新しさです。

  次にこの新しさをもっとよく知るために、今日の聖書の箇所をさらに深く学んで参りましょう。「わたしはあなたの苦難や、貧しさを知っている。しかし実際は、あなたは富んでいるのだ」。ここで聖書は面白いことを言っています。「あなたがたの苦難や貧しさを知っている」と言いながら、その実は、苦難や貧しさは外見だけで、実際は富んでいるのだと。これは日本の現在にぴったりではないでしょうか。今のことに当てはめて言えば、「新しい」というのは表面だけで、依然として古いのが私たちではないでしょうか。本当に新しくなるのは難しいことです。表面だけ変えても、内実が変わらなければ、新年になって新しい気分にひたっても、本質的には何も新しくなっていないことは間々あります。大切なことは私たちが本質的に変わり、新しくなることです。「あなたは新しがっているが、しかし、実際はあなたは古いままなのだ」と、黙示録の著者に言われそうです。

  「あなたの受けようとしている苦しみを恐れてはならない」。新しくなるためには、苦難を受けなくてはなりません。その苦難を恐れては、決して新しくなることはできません。画家は苦労せずに新しい絵ができるでしょうか。

  「見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難に会うであろう。死にいたるまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」。苦難は十日の間だけであると聖書は言います。十一日目には、あなたは別な姿を見るでしょう。この新しい年にも、必ずや苦しみがあるに違いありません。しかし、それを恐れていては何もできません。その苦難を乗り越えて、初めて本当のものが得られるのです。苦難には日限があります。トンネルは暗いけれど、必ず抜けられます、たとい一千メートル続くトンネルでも、必ず終わりが来ます。そのように苦難というトンネルも必ず限界があります。

  苦難の中にある者の危険は、その苦しみがいつまで続くか分からない点にあります。この不安が恐ろしいのです。しかし、どんな苦しみにも終わりがあります。信仰は常にその終わりを知り、その限界を見極めることができます。「われもろもろの全きに果てあるを見たり」(詩編119:96)。真にただひとりの無限なるお方を知っている信仰者は、地上のすべてのものが相対的で、有限であることを知っています。それでこそ「死に至るまで忠実である」ことができるのです。悪魔よりも強いお方は、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と言ってくださいます。この世界に、このお方の知らない苦難はないと知るとき、悪魔から逃れ、勝利を得るのです。
   


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