11月25日(日)「自由と信仰」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。」(詩編51:12)

新約
 「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、『もしわたしの言葉のうちにとどまっているなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう』。」  (ヨハネ8:31-32)

  宗教にも三通りあって、第一は律法宗教で、戒律をやかましく言うものです。パリサイ派の律法学者がそれです。第二は祭儀宗教で、サドカイ派の祭司たちです。最後がイエスの「福音的信仰」です。それによると、真の信仰をもつなら、私たちは自由になるのです。「真理はあなたを自由にする」のです。真理ではなく、真理の枠組みだけを信じている信仰は、人を不自由にします。この地上において、神以外の何物も恐れる必要がないことを知った時、だれを恐れるでしょう。

  それに対してお金は私たちを自由にしません。また隣人も、多くのもめごとの種でしかありません。地位や名誉も下手にあると、それは束縛の源になります。ただ一つ、私たちを造られた神さまのみ、私たちを自由にします。宗教がもし私たちを不自由にするなら、それは真理ではなく、ただ真理の枠組みにとらわれているからです。生ける神を知り、その神に聖霊によってとらわれた時、私たちは本当の自由を手に入れます。
「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」(ガラテヤ書5:13)

  したがって信仰によって自由になるとは、「なんでもできるから、好き勝手」という自由奔放とは違います。そのように自由が肉の働く機会となってはいけません。律法の中心は愛の一語に尽きます。だからその自由を肉の働く機会としないで、その自由によってたがいに愛をもって仕え会いましょう。

  ピルグリムファーザーは自由を求めてアメリカに渡りました。その精神は「自由の人権宣言」に現れています。「神は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、全く自由な人を造りました。しかし、そのための戦いもあります。日本では、靖国神社法案が国会に出されました。それは戦前、神社は宗教ではない、超宗教のようなもので、すべての宗教の上にある、だからすべての宗教者は神社にお参りしなくてはならないというのです。それにはキリスト教だけでなくあらゆる宗教が一丸となって反対しました。それは戦前の再来だからです。戦争中はミッションスクールにまで神棚が設けられました。信教の自由なしに、私たちはこの社会で、ただひとりの神を信じることはできません。

  ところがロ-マ書には、「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ被造物自身にも、滅びの縄目から解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みは残されている」とあります。この自由の問題は、ただ人間だけにかぎりません。自由は、実に神に造られたすべての者に行き渡るのです。今日、人間以外の生物との共存と言うことが言われています。しかもそれは、「神の子たちの栄光の自由」であります。神の子と言えば、人間だけと思っている信仰者は多くいると思います。しかし、それは聖書自体の考えではないことを知ってください。被造物の自由が認められて、初めて私たち人間も自由に生きられるのです。被造物との共存が、このローマ書の信仰であります。
   


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