10月21日(日)「いやし」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」   (イザヤ53:3-5)


新約
 「さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた。この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』。イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」  (ヨハネ5:5-9)


   福音書を読むと、イエスが病人をおいやしになる記事が至る所に出てきます。現代社会は科学万能で、たいがいのキリスト者は病気や健康に関して二重生活をしています。心の問題や信仰の事柄は教会に聖書に、しかし、からだや病気の際には、医者や病院にと、きれいさっぱりと分けてしまいます。その反対に、熱狂的教派の人の中には、神癒(しんゆ)ということがある、祈って、病気をいやすのだ、医者にかかる必要はないと言う人がいます。病気に関して二元論も間違いですが、この熱狂的一元論も大きな間違いです。イエスは、「健やかな者には医者はいらない、いるのは病人だけである」(マタイ9:12、マルコ2:17)と言われました。またパウロの随伴者には「愛する医者ルカ」(コロサイ4:14)がいます。その医者ルカが書いたルカ福音書には神によるいやし(神癒)がしばしば描かれています。パウロもルステラで足のきかない人をいやしています。しかし、パウロは自ら神癒をおこなっているのに、自分の病について、
「高慢にならないように、わたしの肉体にひとつのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである。このことについて、わたしはかれを離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』」(Ⅱコリント12:7-10)
と言っています。とすると人の病をいやし神癒を行うパウロが自分の病気をなおせなかったことになります。

   そこで聖書全体の結論。神の癒しということは確かにある、というよりか、病気がいやされるのはすべてが神癒です。ただそこに医学を通していやす神の癒しもありますが、医学、医者を通さない神の癒しもあるのです。絶対的に医学による癒しでなければ、癒しではないと主張するのは医学の傲慢です。私の知る婦人科医は、手術前に「先生、大丈夫でしょうか」と言われると、答えます、「手術が大丈夫かどうかは、神さまに聞いてください、しかし、私は自分の医者としての最善をつくします」と。この医者は神の癒しということが分かっていた謙遜な科学者です。

   皆さんは二元論になっていないでしょうか。私自身の長い間病気で薬づけになっていた時、信仰的回心の後、全部薬をやめようと決心し、捨て身になった時、不思議と健康になったことがあります。これは一種の神癒だと今でも信じています。だからと言って、その後、医学に頼らないのではなく、必要に応じて、医者の指示に従い、薬も飲んでいます。医者を通して神の癒しが働く時もあるし、医者の業の外で、神の癒しが働くこともある、それはその時、その時、場合場合で、神が決めることであると思います。

   ただ大切なことは、イエス・キリストがこの病人に、「なおりたいか」と聞いていることです。ふつうなら、病人に向かって「あなたはなおりたいですか」と聞くなら、「病気がなおりたくない病人などいない」と怒られそうです。にもかかわらず、イエスは、病者に「なおりたいか」と聞いたのは、病気の治療には、本人の確固とした意志が重要な役割を果たすからです。私自身、長い闘病生活の中で学んだことは、「意志が医師だ」ということです。もちろん医師は必要ですが、それ以上に、「あなたのなおりたい意志」こそが大事なのです。フランクルは、楽観的な人の血清は、悲観的な時のそれより免疫力が高いと言っています。「自分は必ずなおる」と確信をもつことが大切です。

   ペイントン師は、「神さまが時々重い病気におちいらせるのは、時々上を(神さまの方を)向くためですよ」と言いました。パウロも同じように「高慢にならないように、わたしの肉体にひとつのとげが与えられ、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』との御声を聞き『私が弱い時にこそ、わたしは強いからである』」ことを学びました。医者を通して神の癒しが行われる時がある、しかし医者を通せず神の癒しが行われる時がある。そしていずれの場合にも、病は私たちが上を向くためにある。パウロの言葉で言えば、「私たちは弱い時こそ強い」のです。
   


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