8月5日(日)「いのちの勝利」説教要旨

           聖句
旧約
 「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る」   (イザヤ60:1-3)


新約
 「愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこに行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」  (Ⅰヨハネ2:7-11)


    聖書には「闇」と「光」が出てきます。私たちの生活の中で失敗・混乱・争い・憎しみは「やみ」で、成功・愛・理解・平和は「光」です。しかし、光と闇と、どちらが根源的でしょう。闇は、光があってそれがある物体にぶつかる時、そこにできる影に過ぎないのです。光は実体ですが、闇は実体のない空なものとすれば、光が根源です。しかし、創造の時、
「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり」(創世記1:2-3)
すると世界の根底に闇があったのではないか、しかし、その闇は「虚無」として描かれています。つまり闇は無にすぎないのです。そこへ神が「光あれ」と言われて、光は神から来たのです。これはヨハネ福音書によると、「初めに言葉があり、この言葉に命があり、このいのちが人の光です。そして光は闇の中に輝いている。しかし、闇は光に勝たなかった」となります。

   光と闇、最後に勝利するのは光です。愛-憎しみ、生-死、喜びー苦しみ、勝利-敗北、数えればいくらもあります。そこで本当に左側のもの「愛」、「生」、「喜び」、「勝利」が実体があって、その反対には実体がないのでしょうか。ある時、教職の会で、「あなたの人生で一番うれしかったこと」をみなに司会者が問うた時、聞かれた人びとの答え、それは全部が全部、「苦しみを乗り越えて、それを克服した時、それが一番うれしかった」と言うことでした。とすれば、苦しみは喜びを生み出すためにそこにあるとも言えます。とすれば光(喜び)こそ闇(苦しみ)の根源にあるのです。死と生を考えても同じです。死は単独で存在しえません。生があって初めて、死ぬことが起こるのです。とすれば死は生に付属しているものです。本体と付属品とどちらが偉いかと言えば、本体に決まっています。聖書は、光-愛-喜びー真理-生-勝利が本体で、闇-憎しみー苦しみー偽りー死-敗北は付属品だと言っているのです。本体と付属品が戦えば、本体が勝利します。

   
「光は闇に照る、しかし、闇は光に勝たなかった」(ヨハネ1:5)
それが聖書における「いのちの勝利」です。確かに私たちの生活には、勝利もあれば、敗北もあります。喜びもあれば、苦しみもあります。「人生の禍福はあざなう縄のごとし」と中国の諺にありますが、聖書では違います。禍と福は災いと幸せは、同等の価値をもって、相互に巡り来るのではありません。ちょうど死は単独で存在しないで、生に付属しているように、勝利が第一で敗北はそれに付属しています。また喜びこそ第一、苦しみは第二で「喜び」に付属しています。災いと幸いは同価値どころか、幸いが第一で災いはそれに付属しているのです。

   もし神の光の中で、闇があるとすれば、私たちが兄弟を憎む行為によって、つくりだしているやみにすぎません。ちょうど明るい昼間、部屋を閉じて、カーテンを閉め、その中で暗いと叫んでいるようなものです。カーテンを開き、雨戸を明けて、神の光を入れるなら、やみはたちまち消えてしまいます。そのようにやみは人間が作り出しているものに過ぎないのです。

   ある神学者は言いました、神が永遠の昔、インマヌエル(神われらと共に)において世界を作られた以上、この根源的な「インマヌエル、神われらと共に」は変わらないのです。たとい人間が、その罪によって世界を傷つけたとしても、それは神の「インマヌエル神われらと共に」を乗り越えるほどの力はありません。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』中で、ゾシマ長老というのが出てきます。一人の農婦が相談にきます。つらくあたる夫が病気になり、早く死ねばよいとさえ考えるようになりました。彼女は大それた考え(夫を殺すこと)をします。この農婦に対する長老の答えはこうでした。「何も恐れることはない。決してこわがることはないのだよ。その後悔がお前さんの心の中で薄れさえしなければ、神さまはすべてをゆるしてくださるのだから。心底から後悔している者を神さまがおゆるしにならぬほど、大きな罪はこの地上にはないし、あるはずもないのだ。それに、限りない神の愛をすっかり使いはたしてしまうくらい大きな罪など、人間が犯せるはずもないのだしね。それとも、神の愛を凌駕するほどの罪が存在しうるとでもいうのかな。絶えざる後悔にのみ心を砕いて、恐れなどすっかり追い払うのだ。神さまは、お前さんに考えもつかぬくらい深く、お前さんを愛してくださる。たとい罪をいだき、罪に汚れているお前さんであっても、神さまは愛してくださるのだよ」。

   あなたの苦しみよりも、あなたの敗北よりも、神の勝利の方が、いのちの勝利の方が、はるかに大きいのだ。あなたはそのことを忘れていないでしょうか。「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る」
   


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