7月1日(日)「過ちは人間的」説教要旨

           聖句
旧約
 「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます。わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます」  (詩編130:1-8)


新約
 「兄は父に向かって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたのいいつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹もくださったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」  (ルカ15:29-32)


   「過ちを犯すことは人間的なことである」,これはラテンの諺です。二十数年前、北海道の旭川教会から「靖国問題の講演」に招かれました。その時、旭川在住の小説家三浦綾子さんがご主人と一緒に集会に出ていました。講演の数カ月後、三浦綾子さんから詫び状が来ました。彼女が「信徒の友」に連載していた随筆に旭川で講演ふれたのですが。講師である私の名前を間違えたというのです。平謝りに謝り、手紙と共に、著作の三分の一ぐらいを謝罪のしるしとして送ってきました。私はすぐに返事を書きました。ラテンの諺に「過ちは人間的なことである」というのがあります。失敗したり、間違ったりするのは、きわめて人間らしいヒューマンなことです気になさらなくて良いですと書きました。その外にも、私は間違えたり過ちを犯した人に対して、この「ラテンの諺、過ちを犯すことは、人間的なことである」を引いています。

   今日の詩編の言葉はこうです、
「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます。わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」
もし神が、その正しい眼で人間のすべての行為に目を向け、どんな不義も見逃さないのなら、一体だれがよく立つことができるでしょうか。すべての人が落第です。しかし、神さまは人間に対して、決して完璧を求めません。神は完全主義ではありません。神には「ゆるし」があります。そこでこそ人に恐れかしこまれるのです。

   さてこの同じことは、私たち人間に向けて見ることができます。もし人間同士の交わりで、相手から完璧を求められたなら、一体だれがよく立つことができるでしょうか。人にゆるしがあればこそ、その人は貴ばれるのです。「ゆるし」なしの完璧主義、それは「人間的」ではないのです。

   また新約聖書の「放蕩息子のたとえ」を見てください、弟息子はわがままで遊び好き、お父さんからもらった遺産を全部遊女の遊びに使い果たしました。一文なしになって乞食同然の姿で帰ってきました。しかし、父には「ゆるし」がありました。それは息子が謝る前です、まだ遠くにいるのに、父は見つけてとびだしてきて、抱いて接吻し、大ごちそうしました。皆さん、この父、父なる神は、どうしてこのように寛容なのでしょう。それは物質やお金ではなく、父が大切にしているのは、息子の魂だからです。その魂が無事で戻ってきたので、大喜びで、大ごちそうしました。しかし、兄息子は面白くありません。兄息子の言い分を聞きましたか。
「兄は父に向かって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたのいいつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹もくださったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』」
兄息子は父親の見ているものを見ていません。兄息子の見ているのは、父親とは反対に、弟がすってしまった財産です。それとは反対に、父が見ていたのは財産でなく、魂でした。しかし、生ける神はこのまじめ一点張りの兄息子からすれば、親ばかもいいところです。皆さん、詩編に戻ってみましょう。神は兄息子の姿ではないのです。親ばかの姿なのです。「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」。信仰は潔癖症ではありません。それは間抜けの姿をしています。大工はよく「遊び」というのを作って、きっちと仕上げないそうです。「遊び」、「機械などの連結部のゆとり」です。神には、この「遊び」があります。 

   けれども見方を変えて見ると、父親の愛は十字架の恵みでもあります。十字架の恵みとは、そこに「さばき」も含んでいる愛でありまます。しかし、その私たちの罪に対するさばきは、十字架の上のイエスに与えられ、そのことが私たちの救いとなったのです。「ゆるし」が十字架の恵みであることによって、神は私たちの罪をさばきつつ、同時に「ゆるし」を行われました。その時、私たちはただ「ゆるし」を与えられるだけではなく、「さばき」と「ゆるし」を同時に与えられているのです。それは十字架のイエスがさばきを受けることによって、私たちに「ゆるし」がもたらされる、このイエス・キリストによる恵みによってであります。だから
「罪の増すところ、恵みもいや増す」(ローマ5:20)
とさえ言われるのです。三浦綾子さんの失敗、間違いを通して、私たちは新しく結ばれました。何と不思議な神の恵みではないでしょうか。それはある意味で不可思議な十字架の恵みでもあります。
   


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