4月29日(日)「信仰と家族」説教要旨

           聖句
旧約
 「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」   (創世記2:24)


  新約
 「こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」  (ローマ15:7)


   親子について、創世記には
「人は父母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」
とあります。子供を育てるとは、「子供を育て上げること」と共に、「子供を離すこと」を意味します。子供を独り立ちできるようにしてあげること、それが教育の本旨なのです。「親」という字は、「木のそばで立って見ている」という三文字からできています。子供が独り立ちするのを「木のそばで立って見ている」のが親の理想的姿です。もし親が干渉して一から十までしたり、やかましく指図するなら、それは教育でも養育でもありません。それは干渉でしかありません。けれども親は何もしないのではありません。「木のそばで立って見ている」のです。そして必要最小限度のことを語り、必要最小限度のことをするのです。反抗期とは、「お父さんお母さん、わたしは自分でできるのですよ」と独立宣言しているのです。「神に任せる」とは、「子供に任せ」親が「しないでいる」ことです。

   もう一つ大切なことは
「キリストもわたしたちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」
という御言葉です。キリストの本質は、「受け入れ」です。キリストは罪人を受け入れました。また「だれでもこのようなひとりの幼子を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。 「受け入れる」という話をしたら、「そんなことをしたら、いくらお金があっても足りない」と言った親御さんがありました。しかし、「受け入れる」とは、何でも相手の我がままを受け入れることではありません。それは「あなたの気持ちはよく分かる」という意味です。親が自分を分かってくれていると理解する子供は、決して我がままな要求はしないでしょう。「空の鳥が空気を必要とするように、お魚が水を必要とするように、私たち人間はお互いに受け入れられることを必要としている」(モルトマン)。

   次に夫婦です。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:27)
神の似像とは、人が男と女に造られていることです。神の似像を失ったなら、一つになれないのです。では神の似像とは何でしょうか。それは神が三位一体父・子・聖霊の三つが愛の結び付きであることです。そこでもまた、「受け入れる」ことが大切です。キリストの受け入れてくださる姿は、そのまま夫婦の関係にも言えます。ボンヘッファー は「聞くことの奉仕」ということを言いました。「聞く」ということは大切です。

   また夫婦の関係には、長い歴史があります。初婚のういういしい頃、少し結婚生活も慣れてきた頃、さらに完全に日常的になれ過ぎてしまう頃、ついに年とって熟年に達し、互いに、熟して豊かになってくる頃と大体、四つぐらいの段階があります。二番目の段階が危機的です。その時、新たに問い直し、新鮮になることが必要です。そして危機がある時、十字架のキリストの愛、それは「ゆるす愛」にほかなりません。それが必要です。人間にはいくつになっても分からない面があるものです。「ゆるすこと」ができる人は、愛しているのです。夫婦愛にも十字架の贖罪愛がどんなにか必要か、計り知れないものがあります。
   


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