2012年4月8日(日)イースター礼拝説教「永遠のいのち」
説教:蓮見和男

   

           聖句
旧約
 「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされることを初めから終わりまで見きわめることはできない」  
(伝道の書3:11)


  新約
 「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう』。マルタは言った、『終わりの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています』。イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』。マルタはイエスに言った、『主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております』」  (ヨハネ11:23-27)


   「いのち」には三通りあります。

   1.この世の「肉のいのち」、

   2.「精神的いのち」、

   3.「復活の永遠のいのち」です。

   復活のいのちはこの世の肉のいのちではありません。肉のいのちに再び生き帰るなら、それは「蘇生」であって人はまた死ななくてはならないでしょう。また精神的いのちでもありません。復活の意味が分からない人は言います、「人が死んでも、その業績が永遠に残るという意味でしょうか」と。しかし、そうした精神的いのちもまた相対的な「この世のいのち」にほかなりません。内村鑑三は言いました、「復活は、愛する者を墓に葬って帰り道に分かる真理だ」と。それは確かに第一の肉体的いのちと関係はあります。肉体が死んだ後、永遠のいのちによみがえるからです。マルタの兄弟ラザロが死んだ時、イエスはマルタに言いました。
「あなたの兄弟はよみがえるであろう」
と。マルタは言いました、「終わりの日のよみがえりの時、よみがえることは存じております」と。それはやがて来る神の国でよみがえることを言っています。ここでも一種の精神化が起こっています。したがってマルタの答えは、「存じております」と、知識として頭で分かっているのです。しかし、イエスの復活は、マルタの言うこの世の次元とは違っています。使徒信条の最後に、「体のよみがえり、永遠の生命を信ず」とあります。それは「体のよみがえり」であって、精神的よみがえりではありません。

   しかし、「体のよみがえりなんて、本当にあるのだろうか」という問いがあるかもしれません。しかし、もし復活が、死んだ父親の記憶がいつまでも続くとか、作品が後世まで残ると言った精神的なことだったらどうでしょう。そこにどうしてキリストの復活が必要でしょうか、信仰もいりません。常識で足ります。それはキリストの復活とは何の関係もありません。マルタはこのことが分かりませんでした。それで「存じております」と知識の延長線で答えているのです。イエスは彼女に言われました。
「私はよみがえりであり命である」
と。このキリストの復活の真理は、常識で理解して分かる真理ではありません。信じて知る真理であります。死んだイエスが、その墓をからにして、新しくよみがえる、死んで復活した、その命は、イエスの復活した体のいのちです。全く想像を絶した、新しいいのちです。「存じている」知識ではありません。

   近代社会はすべてのことを、知識に変えます。それは物を距離を置いて対象的に見ます。それが近代人の知識です。かつてトーマスがそうでした。「私は、その手にくぎあとを見、私の指をそのあとに差し入れてみなければ信じない」と。それは実証的な対象的な真理にすぎません。復活それは対象的知識ではなく、私をも巻き込み、包みこむような真理なのです。

   この復活の信仰は、私たちにとって二つの面を持っています。

   1.将来的死ぬの向こう側の問題、

   2.現在的虚無の克服の問題です。

   1については、今わの際の人に向かってブルムハルトが、「あと10分で神さまに会えるのだ。しっかりしなさい」といった言葉があてはまるでしょう。2については、戦後ドイツで、廃墟になった街に、「イエスはよみがえられたのだ。元気を出そう」と言っていて復興した事実があてはまります。

   この様に復活信仰は,私の将来と現在を新しいいのちに呼び覚まします。 
   


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