12月18日(日)「神が事をなす」説教要旨

           聖句
旧約
 「助けを得るためにエジプトに下り、その馬に頼る者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかし、イスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない。それにもかかわらず、主もまた賢くいらせられ、必ず災いをくだし、その言葉を取り消すことなく、立って悪をなす者の家を攻め、また不義を行う者を助ける者を攻められる。かのエジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまづき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる」  
(イザヤ31:1-3)


  新約
 「アポロは一体何者か。またパウロは一体何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは、神である」  (Ⅰコリント3:5-7)


   クリスマスで起こっている出来事で神が事を起こされたものでないものは、一つもありません。マリアの受胎、エリザベツの妊娠、東の博士の到来、すべてが神のご計画の下にあったとしか思えないことばかりです。

   すべて神が事をなすということは、この科学の発達した現代でも全く同じです。有名な地震学者が言いました。今度の大地震を地震学者のだれ一人予測した者はいなかった。東海沖地震のように前々から予測していた地震は起こらず、東北でしかもマグニチュード9という大地震が起こってしまった。関東大震災でも、阪神淡路大地震でも、地震学で予測していたものは、一つもなかったとのことです。詩編にあるように「天に座する者笑いたまう」でしょう。
「助けを得るためにエジプトに下り、その馬に頼る者はわざわいだ」
「かのエジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまづき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる」
まことにその通りです。戦艦大和、武蔵と言った巨大戦艦は、不沈艦と言われたが、実際には、航空機によって港を出てすぐに沈んでしまいました。

   そういう戦争という大きなことではなく、私たちの日常生活のささいなことでも、中心において神が事をなす事実は一杯あります。私は中学を卒業して、すぐに神学校にはいり、牧師になる予定でした。それが家の反対で行けず、東京外語に入りました。しかし、それも卒業できませんでした。予想しない三つのことが起こりました。一つは戦争で学徒出陣です。二つ目は私のからだがますます弱く、学業を続けることができません。第三はこれも予想しないことでしたが、提山という友人に出会って、信仰を離れたことです。予想していることは起こりません。そして予想しないことが起こります。それは日々の出来事でもそうです。

   ではすべては神のなさることだから、人間は全く操り人形で、自由意志もなく、自己選択もない機械人間なのでしょうか。違います。神は人間を自由に、自分の意志で動くものとしました。パウロはコリントの教会の成長について、こう言っています。
「アポロは一体何者か。またパウロは一体何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは、神である」(Ⅰコリント3:5-7)
パウロは教会に仕え、福音宣教に従事して行く、その中で、自分のコリント教会の建設の事業を、農業にたとえました。農夫は、畑を耕します。また種を蒔きます。それら全部人間のすることです。神さまが来て、種を蒔くわけではありません。しかし、
「アポロは一体何者か。またパウロは一体何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである」
そこまでは自由を与えられた人間の業です。けれどもそれは、そこで真に働いているお方に仕えているに過ぎません。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは、神である」
つまり、人間が自由にふるまって、していることの中に、神の働きがあるのです。箴言に
「人の心には多くの計画がある。しかし、ただ主のみ旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)。
確かにすべてのこと人間が自由にすることができます。しかし、そのことがなるか、ならないかは、人間が決めることはできません。最終的には、神がすべてを決められるのです。決して人間が半分、神様が半分というように、領域が別れているわけではありません。すべてが、人間の自由に任せられています。しかし、それを上回ってすべては神の御手にあります。その時、一つの原則があります。それはマリアの賛歌にある、次のことです、
「主はみ腕をもって力をふるい、心のおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者をよいもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」
これはシーソーに似ています。高い者は低く、低い者は高く。シーソーは高い時も、また低い時も中心は変わりません。中心である神を見なさい。 目に見えるものにより頼んではなりません。高くされた時、驕り高ぶってはなりません。また反対に、低くされた時、すべてが落ち目のとき、恐れてはなりません。神はあなたを高めてくださいます。この鍵は、ただ生ける神がにぎっています。あなたがさばかなくても、さばくお方がおられます。必ずおられます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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