12月11日(日)「愛 の 勝 利」説教要旨

           聖句
旧約
 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」  
(ホセア6:1-3)


  新約
 「しかし、わたしたちを愛してくださったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも、将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」  (ローマ8:37-39)


  クリスマスとは、「愛の勝利」であります。愛というと親子の愛や恋愛と、人間の愛を考えがちですが、人間の愛は、この世で必ずしも勝利しません。むしろ、人間の罪のために敗北します。しかし神は、この罪深い人間の愛に介入してくださり、自ら人となり十字架に罪を負ってくださったのです。神自ら、罪深い人間の悲惨を負われました。一般的恵み(人間的愛情)は、特殊的恵み(十字架の愛)によって担われます。私たちはこれによって、神の深い愛を知ったのです。それが神の子がベツレヘムに生まれた意味です。ホセアの言葉は、このことを示しています。
「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」
イザヤ書では、
「まことに彼は、われわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」
これはまことに、今度の震災を表していないでしょうか。それは、
「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛と憐れみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ63:9)
に表された神の苦悩する愛です。

  クリスマスは、ただ神の子が地上に来られただけではなく、馬小屋で生まれ、自然の世界とも調和をもたれ、御自身「神の小羊」と呼ばれます。まさにエコロジー的世界の回復、それがクリスマスです。また東の博士たちは、異邦人の救いを表しています。ドイツにいた時、異邦人の日だというので、依頼され私が説教し、韓国と台湾の留学生が聞きに来て、帰りに私の家で食事しました。クリスマスは、どの国の人も、救いにあずかる日なのです。 二千年も前に、聖書はエコロジーの問題を知り、国家、民族の争いを越えて、全人類が一つになることを示したのです。

  イエス・キリストにおける、この深い愛を、ローマ書では次のように表しています。
「しかし、わたしたちを愛してくださったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも、将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」
神の愛は、ただ私たちと同じになるだけではなく、悪の力に勝利するものです。
「これらすべての事において勝ち得て余りがある」
と言っています。ただ神の愛は勝利するだけではなく、おつりがくる、余りがある。やっと勝つというのではなく、ゆうゆうと勝って「余り」がでるというのです。この余りある愛に、
「死も生も、天使も支配者も、現在のものも、将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません」


  私たちは実際生活の中で、この神の愛の勝利を見ているでしょうか。神は愛ですから、与えることが本質であります。愛は与えなければ、愛ではありません。それは具体的であって、抽象的ではありません。よく「気は心」などと申しますが、それはごまかしです。この神の底知れない愛があるのに、私たちが不安におちいるなら、それはこの神の愛の事実に対する挑戦です。たといすべてのものが不真実でも、神はいつでもどこでも真実にまします。このことを信じなさい。天下のいかなるものも、この真実を無効にすることはできないのです。

  私たちが、この現れたもう神よりほかに、何も頼ることのできない場所で、神は私たちに対して、真の生ける神であられる。そこに栄光の希望が私たちに現れます。十字架のキリストは、死んだキリストではありません。確かにひとたび死にましたが、再び生けるお方です。十字架の主は復活の主です。真に生けるキリストは、生きて王座にいますキリストです。

  単に力強いだけでなく、たえず活動し、愛し、地上で苦しんでいる私たちをとりなしてくださるお方です。そのお方は勝って余りがあります。そして神の愛のこの余り、「剰余」が大切です。余りは余裕です、このゆとりが大切です。その余りにこそ、神のほんとうの姿がひそんでいるのです。勝つだけなら誰でも望みます。しかし、あなたが勝つのではありません。この愛に気づく者にとって、すべては益に働くのです。この全世界に、この神の愛の出来事以外に何も起こらないことを信じましょう。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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