12月4日(日)「 祈りきる、信じきる」説教要旨

           聖句
旧約
 「ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた。わたしの口は敵をあざ笑う。あなたの救いによって、わたしは楽しむからである」  
(サムエル上2:1)


  新約
 「香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。そこで御使は言った、『恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ。あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい』」  (ルカ1:10-13)


   佐賀に説教行った時、私が「信じなくてはなりません」と言ったら、ある婦人が「そうです。信じきるのです」と答えました。その「信じきる」という言葉が印象的で、今でも耳元から離れません。その婦人は少しですが心の病をもっているお方でした。恐らく、その病との苦しい戦いの中から、その「信じきる」という信仰をえたのでしょう。

  クリスマスに向かって、「信じきる」、「祈りきる」ことが大切ではないでしょうか。その言葉は、信仰の戦いの中から出てきます。「信じる」ということは、誰でも言います。神さまに対してだけでなく、人に対しても「君を信じる」と言います。でも「君を信じきる」とは言いません。日本語で、たった一字「き」が入っただけです。そこには天と地ほどの違いがあります。

  皆さんも、確かに「信じています」、しかし、「信じきっている」でしょうか。皆さんはまた、確かに「祈っています」、しかし、「祈りきっている」でしょうか。クリスマスは、祈りと結びついた時なのです。

  今日の旧約聖書に「マリアの賛歌」の原型である、ハンナの祈りが出てきます、
「ハンナは祈って言った、『わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた』」
とあります。その祈りは、主による「喜び」を与え、主による「力」を与えたのです。「喜び」と「力」、何と私たちの生活に欠けているものではないでしょうか。力はあっても、喜びがありません。また喜びがあっても、力がありません。「喜び」と「力」こそ、信仰と祈りの賜物です。

  また今日の新約聖書には
「香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた」
とあります。祭司ザカリヤが聖所にはいって香をたく、その間中、外では民衆が祈ってザカリヤを支えていたのです。もしこの民衆の祈りがなければ、老祭司に何ができるでしょうか。説教者が講壇にたっても、もし会衆の祈りがなければ、何をすることができるでしょうか。

  いやそれだけではありません。ザカリヤもエリザベツも祈っていたのです。
「すると主の御使が現れて、香壇の右にたった。ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。そこで御使は言った、『恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ』」
とあります。確かに長い間、この夫婦は祈り続けていたのです。しかし、「祈りきっていた」のでしょうか。そもそも御使とは何でしょうか。それは「人間の不可能性のところに現れる、神の可能性である」と、ある神学者は言いました。

   神の摂理には三通りあります。1 一般的摂理 2 特殊的摂理 3 最も特殊的摂理です。一般的摂理というのは、雨や太陽が与えられ、ものが育つような、信仰なくても与えれる恵みです。特殊的摂理というのは、信仰によって起こるものです。皆さんは、神に祈って驚くべき道が開かれた経験があるでしょう。それは特殊な摂理です。

  しかし、第三に「最も特殊な摂理」、これこそ最も驚くべき奇跡です。今、ザカリヤに個人的に起こったこと、年老いた老夫妻に子供が生まれたという、個人的な奇跡です。クリスマスはそのような奇跡で満ちています。田舎の一処女に神の子が宿る、それは神一回限り歴史の中に起こされたことです。そこから西暦が生まれました。それは不思議な暦です。最終的には、どんな国もこれを使わないと通じないのです。その暦はキリストが生まれた年を西暦の元年とし、その前はBC(キリスト以前)、その後はAD(主の年)です。すべての歴史的出来事をキリストから数えているのです。世界中がそうしているのです。したがって、この歴史はイエス・キリストの勝利の歴史です。

  それゆえ、このイエス・キリスト、「歴史を支配しているお方」の名によって、祈る、いや「祈りきる」、そして「信じきる」、そのことがクリスマスに必要ではないでしょうか。祈らないところには、本当のクリスマスは来ません。

  クリスマスの人びとは祈りの人でありました。ザカリヤは祈りが聞かれた時、
「どうしてそんなことがありましょう」
といぶかりました。信じられないのです。ただ「信じきる」人だけが、そのことの歴史に加わることができます。私たち人間には神を見ることはできません。それゆえ、神の側で、神を人の形で見せてくださったのです。ここにクリスマスの本当の真理があります。また人間には自分の罪をなくすことができません。それゆえ、神が人となって、その罪の重荷を負ってくださったのです。

  この真理は、「信じきらなくてはなりません」。そのため、信仰を与えてくださいと「祈りきらなくてはなりません」。必ずや神は、あの婦人の場合のように、苦悩の末、祈りのすえ、「信じきる」ことができるようにしてくださいます。「信じる」と「信じきる」とは、たった一字の違いですが、天と地ほどの違いがあります。クリスマスの奇跡、「最も特殊な摂理」は、信じきる、そして祈りきる人間を必要としています。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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