11月6日(日)「死と生を超えて」説教要旨

           聖句
旧約
 「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これらは主の語られた言葉である」  
(イザヤ25:8-9)


  新約
 「「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 」  (第一コリント15:55-58)


  召天者記念には、すでに召された者と生きている者がいます。今日の旧約聖書はすでに召された者のため、新約聖書は生きている者のために書かれています。まず召された者について、
「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる、これは主の語られた言葉である」
これは明快です。神さまが、とこしえに死を滅ぼしつくされた。次いでイザヤは言います、
「その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。私たちは彼を待ち望んだ。彼は私たちを救われる。これは主である。私たちは彼を待ち望んだ。私たちはその救いを喜び楽しもう」(イザヤ25:9)
神は私たちの死を滅ぼし、私たちが永遠に生きるようにされた。つまり、神の国において私たちの生は永遠に続くから、その救いを待ち望み、そのことを喜び楽しもうというのです。何と明快なことでしょう。ここには、少しも難しいことはありません。子供でも、「おじいちゃんは今、天国にいる」とか、信仰のない人でも「天国で会いましょう」などと普通に言います。したがってこれは何も難しいことではありません。しかし、事実その通り信じるか、そこに迷いがあります。 

  朝ごはんを食べれば元気になる、それは明快です、しかし、体の悪い人が、朝ごはんを食べるところに行くには大変です。死→生、それは理屈としては決して難しいことでありません。けれども、事実それを受け入れることは大変です。一度信ずることができれば、すべては明快で、喜び楽しむことができます。疑いはあなたの方にあります。神さまの側は明快です。問題はあなたが食べるか、食べないかにあります。以上は、死→生の問題です。

  第二は、生きている人の問題です。
「感謝すべきことには、神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜ったのである。だから愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」
永遠の生は死んだ人の問題だけでなく、今、生きている人の問題です。すべてが死で終わりになるなら、今やっていることはどうなるのか、全部ご破算か。そうではありません。神は死を超えて勝利した。あえて「越えて」でなく、「超えて」という表現を使いました。「越えて」だと場所的です。しかし、「超えて」だと、勝利してそれを乗り越える意味があります。神は死に勝利したのです。だから愛する兄弟たちよ、
「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」
何やってもすべてがむなしい、それをニヒリズムと言います。

  戦争の時、学徒出陣ということがありました。私が東京外語の時です。学生課長が、全校生徒を集めて、「もう学生の兵役延長はなく、すぐ兵隊に行かなくてはいけない」と言いました。兵隊に行く、それは直接死を意味することが大である。同級生の野村が校舎の間にある芝生でじっと座ったまま、真剣に考え込んでいたのが、忘れられません。多分一時間以上考え込んでいたと思います。ついに踏ん切りがついて、決然として立ち上がりました。この光景は、私にとって非常に印象的で、今でも焼き付いてはなれません。彼は死と格闘していたのです。

  死を超えて勝利した人は強いと思います。「死は勝利に飲まれてしまった」。これも第一のことと同じく明快です。ただその真理に達するまでに時間がかかります。死に対する勝利を知った人は、今、手元にある小さなことにも精を出すことができます。今は戦争はありません。しかし、ガンがあります。自然災害があります。私たちはいつも死と背中あわせです。

  第三に、生者から死者へです。ベンヤミンは、これまでの歴史はほとんど勝者の歴史だ。しかし、そこには敗者もあるはずだ。生者の使命は、その名もなく死んだ人の名を覚えることである。沖縄には、敵も味方も死者の名が記されている平和の礎(いしじ)があります。ヒロシマやアウシュヴィッツで名もなく死んだ人びとはむだに死んだのか、そうではない。今生者は彼らの名を覚える責任がある、それが真理である。聖書にも、
「キリストは死者と生者の主となるために死んでよみがえられたのである」(ローマ14:9)
とあり、そこでは死者が先です、「キリストは死者と生者の主となるため」とあります。皆さん、イエス・キリストは真っ先に死を乗り切って勝利したのです。それは私たちのためです。死は乗り切られました。だから死を恐れずに生きようではありませんか。
「あなたがたはこの世にあっては悩みがある、しかし、恐れるな、わたしは世に勝っている」(ヨハネ16:33)
というお方がそばにいてくださるのですから。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2010 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.