10月2日(日)「神の真実、とりなし、聖霊の力」説教要旨

           聖句
旧約
 「しかも彼は多くの人の罪を負い。とがある者のためにとりなしをした」  
(イザヤ53:12)


  新約
 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしをしてくださるからである。そして人の心を探り知るかたは、御霊の思うところが何であるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」  (ローマ8:26-28)


   「とりなし」とは、キリストと聖霊による、私たちを苦難から救ってくださる力です。

   1.
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる」
初めに「弱い私たち」 すべてがうまく行く時、聖霊のとりなしを感じません。しかし、「弱い私たち」が前面に出る時、それは聖霊のすばらしいとりなしの働きの対象なのです。反対に「強い私」がある時、聖霊は働きません。ではここにある「同じように」とは、何と同じようにでしょうか。それはすぐ前にある「被造物のうめき」と同じように、聖霊も「うめいて」下さるのです。

   2.
「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしをしてくださるからである」
 私たちは弱い時、祈ります。しかし、本当の弱さは、その祈りさえもできない時です。本当に苦しみが大きい時、「祈って何になる」と言います。その時、聖霊のうめきがあります。聖霊は私たちの内に働く神ご自身です。私たちの苦悩の時、神もまた苦悩してくださるように、聖霊は私たちのうめいている時、同じようにうめいて下さるのです。そのうめきは、「言葉にあらわせない切なるうめき」です。

  「とりなし」は、高みから見下す、慈善事業ではありません。私たちのの低さに来て、私たちと同じ目線で、私たちを助けるのです。「とりなし」は原語のギリシア語で、「(私たちの)ために」、「中に」、「出会う」という三つの言葉から成り立っています。私たちの「うめき」が、「すべては駄目だ、無力だ、無意味だ」という虚無主義のとりこになっているところで、聖霊は、「私自身が、あなたの虚無のところに介入してあげよう。つまり御霊ご自身が、私自身のために、私自身の所に、言い尽くせぬうめきをもって、出会って下さるのです。

   3.
「そして人の心を探り知るかたは、御霊の思うところが何であるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」
 神は私たちの必要が何であるかを一番よくご存じです。イエスも言われました、
「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じである」(マタイ5:8)
このことが次の結論の前提になっています。

   4.
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」


   私たちには「善と悪、幸いと禍い」という、二つの相反することが、いつもあります。パウロは
「善を欲する私に悪が入り込み」(ローマ7:21)
「私の欲する善はしないで、欲しない悪はする」(7:19)
と言っています。悪・禍・病は、神の創造に反する力です。しかし、私たちはこれら二つを知っていても、この二つの関係を知っているでしょうか。天地万物を創造された神は、今、弱いあなたのために「とりなしの御霊」を送って下さるのです。たとい悪が善に一時勝ったにみえても、それは永続しません。「ご計画に従って召された者たちと共に働いて」、 「共に働く」とは、悪さえも善と共にうまく働くことです。悪いことと思っていたことが、善いことに働くのです。

  日本の敗戦はよかったと思います。軍閥がなくなり、天皇が神でなくなり、議会制民主主義がまがりなりにもできてきました。この世界、悪いことは、ただ悪いばかりではありません。それが善く働くことがあるのです。「スイスは人間の混乱と神の摂理で導かれている」。まさに人間の混乱でしかないところに神の摂理は働くのです。それが「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」ということの意味であります。

  そのことは、決して自動機械のように、「悪→善」となるのではありません。「神を愛する者たち」と言われています。もしあなたが神を愛し始めるならば、神は働いて、万事を益と変えてくださるでしょう。では「神を愛する」とは、どういうことでしょう。それは「自分中心」でなく、「神さま中心」に生き始めることを意味します。中心が変わらないと、悪は善に働きません。邪魔しているのは、あなたの自己中心です。それが変わる時、神は万事をすべてを、益に変えてくださいます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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