9月25日(日)「 神 の 痛 み 」説教要旨

           聖句
旧約
 「わがはらわた彼のために痛む。われ必ず彼をあわれむべし」  
(エレミヤ31:20,文語訳)


  新約
 「今わたしは、あなたがたのための苦難を受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」  (コロサイ1:24)


   敗戦の翌年1946年日本の神学者北森嘉蔵は、『神の痛みの神学』という本を出し、ベストセラーになりました。今でも文庫本になっていて読むことができます。そればかりでなく、この書は、英語にもドイツ語にも翻訳され、海外のキリスト教界でもよく読まれました。

   非常に面白いのは、神は痛んだり苦しんだりしないというギリシア的伝統があるのに、この本ではエレミヤ書を引用して、「神の痛み」についてのべているのです。理性的な言葉でなく、「痛み」という情緒的、感覚的言葉が用いられていることがユニークなのです。しかし、よく考えてみると、「神の痛み、苦しみ」は、神の本質である愛の一面です。イザヤも
「彼らすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(63:9)
と言っております。

   「キリストの本質的な力とは何でしょうか。それは自発的に苦しみを受けることによって、完全となった愛です。つまり十字架の上で従順に死に、それによってこの世をあがなった愛であります。これが神の至高性の本質です。受苦は神の子が到達した究極の勝利です」(ロスト)。教会の上に十字架があり、礼拝堂の正面に十字架があります。この十字架こそ真理の中の真理です。

   昔から「正義で愛なる神が世界を創造したのなら、どうしてこの世に、こんな不幸や苦悩があるのか」という議論があり、神学的には「神義論」と言います。果たしてこの世界には「神の正義」があるのかと問うのです。その答えの一つに、「神は世界を良く完全に自由なものとして造った。しかし、人間がその自由を乱用して、罪を犯したために、この世に災いが起こった」というのがあります。けれども、この答えで満足できない人がいて、「神が全知全能ならば、どうして罪を犯さないような自由へと人間を造らなかったのか」という問いを提出してきます。

   しかし、聖書を深く読む時、別な答えが出てきます。今述べたように神の愛の本質は、十字架に示されている「苦悩を伴う愛」だということです。「神の痛み」は神の本質です。その説明に面白い例を引きましょう。

   日本キリスト教会の牧師の会で、司会者が、「皆さんの生涯で、一番うれしかったことを述べてください」と言ったところ、全員が話し終わってみると、何と「一番うれしかったこと」が、一人残らず「一番苦しかった話」なのです。その一番苦しい出来事から、不思議な導きで脱出できて、とてもうれしかったというのです。私はそこで「人生で真の喜びとは、真の苦しみとつながっている」と考えました。そしてそこから、神さまが、この世に苦悩をおかれたことの意味が分りました。

   もし人生が楽しいこと、うれしいことずくめで、何の苦しみもなかったら、私たちは生きる意味を失うのではないでしょうか。苦悩において私たちは学びます、苦悩において私たちは人生の意義を発見します。苦悩において私たちは神の愛を見いだします。苦悩において私たちは連帯し、互いに愛し合います。苦悩はすべての良いことを創造する生みの親なのではないでしょうか。こうして先ほどの神義論の答えも出てきます。その神の本質こそ、「苦悩する愛」であると。 

   ベルジャイエフ(ロシアの神学者)は言っています。
「救いとは、まさに人間が神ともう一度真の交わりを結ぶことによって、他の人間や世界と失われた関係をふたたび取りもどすことにほかならない。だから個人だけ、また選ばれたものだけが救われるということは決してありえない。十字架によって表されているこの世の苦しみと悲劇は、全人類と全世界が救われ、その本質が根本から改められ、生きとし生けるものがすべて生まれかわらなければ絶対に終わりに達しないであろう。私の救いは他の人の救いとかかわりあっているばかりか、動物、植物、鉱物、いや一枚の木の葉とさえもかかわりあっているのである。こうした宇宙のすべてのものが全面的に変容し神の国のものとならなければ、わたし自身にも救いは訪れないであろう。しかも全宇宙のすべてが、そして私自身もまた救われるか否かは、もっぱら私の創造活動のいかんにあるといっても過言ではない」
 

   パウロは、この苦悩を語る時、こう言います、
「今わたしは、あなたがたのための苦難を受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」
これは今のベルジャイエフの「もっぱらわたしの創造活動いかんにあるといっても過言ではない」を説明しています。パウロもベルジャイエフも、私たちの苦労する活動が救いをもたらすとは言っていません。私たちの苦悩の行為は、十字架の苦しみに対応する行為です。

   「キリストの苦しみのなお足りないところを」とは何でしょうか。それはキリストの苦しみがまだ救いに不十分だと言っているのはありません。十字架はすべて十分な救いの業を果たしました。しかし、まだその完全な救いが分からない人がいます。その人びとに完全な十字架の救いを伝えることは、私たちの努めです。もし世界の苦悩が一つもなければ、私たちは十字架の救いを理解しないでしょう。

   この度の震災に当たってモルトマンのファックスは、「神の苦悩」でした。そこには多くの考えらさせられることが含まれています。しかし、その一番の解説は先ほどのイザヤの言葉です。「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛と憐れみとによって彼らをあがない、いにしえの日つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」です。 「生は苦、しかし愛」、そしてまた「神は苦、しかし愛」。愛にして苦、それが人生ですが、しかし、それは神の本質でもあります。「最高の苦しみのところ、そこに最高の愛がある」ことを忘れてはなりません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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