9月18日(日)「 雲の柱・火の柱 」説教要旨

           聖句
旧約
 「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった」  
(出エジプト13:21-22)


  新約
 「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」  (Ⅰコリント10:13)


   信仰の生涯は、出エジプトにたとえることができます。エジプトの奴隷状態は、私たちの罪の奴隷状態でしょう。そこに指導者モーセが現れます。モーセは臆病で神の召しを断りました。
「わたしは口べたです。とても御用に役立ちません」
と。私たちの人生にもいろいろな時があります。私たちは自分の欠点を言い訳にして、神の御用を断ることがないでしょうか。

   しかし、神は言いました。
「口は誰が造ったのか、この主なるわたしではないか。わたしがあなたの口と共にいる」
と。神はそのような時、わたしの弱さを覆う陰でありました。「み神はなれの足を強くす、み守りあればなれは動かじ。み民をば守るもの、まどろみ眠りまさじ。み神はあだをふせぐ楯なり。なが身をつねに守る、陰なり」と賛美歌301にあります。信仰者の人生を守るものは、この生ける神であります。

   出エジプトのように、神は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、私たちを導かれるからです。神は昼には昼にふさわしいように雲の柱となられ、夜には夜にふさわしいように火の柱となられます。神は、その時にふさわしく私たちを導かれるのです。しかし、出エジプト記をよく読むと、
「この時、イスラエルの部隊の前に行く神の使いは移って彼らのうしろに行った、雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立ち、エジプトびとの部隊とイスラエル人びとの部隊との間に来たので、そこに雲と闇があり、夜もすがら、かれとこれと近づくことなく、夜がすぎた」
とあります(14:19-20)。なんと大きな配慮ではないでしょうか。

  前にいたものがうしろに来る。神はあなたの前を進んで行かれるだけではなく、ある時は、あなたのうしろに来て、あなたのうしろを守りたもう。おお何と偉大な神の導きでしょう。私たちが得意の絶頂である時、それはきまって前向きの時に違いありません。その時こそあやういのです。勝利に酔っている時、あなたはつい自分の後ろを忘れます。

   新約聖書のコリントの手紙では、
「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」
とあります。 では「神の真実」とは具体的に言うと何か、それは
「あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」
。神は四方の道がふさがれた時、上への道を備えておられるのであります。それはすぐには見いだされないかも知れません。それは試練と共ににあるものです。それは神が与えたもう道だから、私たちがこしらえる脱出路とは違います。思わずに与えれるものです。しかも、「試練と共に」与えれるものであります。苦悩、試練があると、それと共にあるものです。

   「後ろ」にしても、「逃れる道」にしても、常の状態では見えにくいものです。このふだん見えないものを見せてくれるもの、それが信仰であります。
「世に勝つ勝利はわれらの信仰である」(Ⅰヨハネ5:4)
それは人間に見つけられるものでしょうか。私たちの「後ろ」は、私たちに気づかない消極的面に違いありません。「逃れる道」も私たちに気づかないものですが、それは積極的な面です。私たちはこれら二つの気づかない点、積極的、消極的な面をもっています。

  しかし、そこも神のいます場所です。一方は調子に乗っている時、気づかない私たちの「後ろ」です。もう一方は、私たちが落ち込んでいる時、失敗し、敗北し、うまく行かない時、私たちに気づかない「逃れる道」です。私たちはこのように落ち込んでいる時も、勝利に酔っている時にも気づかない面があるのです。ただ信仰のみ、神を信じ、この二つの神の道を見いだすでしょう。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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