9月4日(日)「悪を善に変える」説教要旨

           聖句
旧約
 「ヨセフは彼らに言った、『恐れることはいりません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました。それゆえ恐れることはいりません・・・』」  
(創世記50:19-21)


  新約
 「愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかつ炭火を積むことになるである。』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい』」  (ローマ12:19-21)


  「悪を善に変える」。そんなことができるだろうか。私たちは反対に善を悪に変えてしまうのではないか。しかし、今日の創世記のヨセフの物語は、不思議にも悪を善に変える話です。

  ヨセフは生意気なことばかり言うので、兄弟は怒って、彼を穴に投げ込んで奴隷として売りました。しかし、ヨセフは、エジプトで出世して、宰相の地位にまでのし上がりました。ひどい飢饉がありましたが、エジプトだけは、ヨセフの知恵で備蓄して食料があり、人びとは、エジプトに食料を求めてきました。ヨセフ兄弟たちも、飢饉でエジプトに食料を買いに来ました。その時ヨセフが、自分にひどいことをした兄弟たちに言った言葉です。確かにヨセフ生涯は数奇な運命で、まさに
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました」
という通りです。

  ここでは確かにヨセフもその知恵によって、宰相の地位にまでのし上がり、また飢饉を予知して備蓄しました。けれどもヨセフは「神がそれ(悪)を良きに変えた」と、これを自分の功績とは考えませんでした。確かによくヨセフの物語を読むと、不思議な神の摂理の働きなしには、知恵者ヨセフだけでは何事もなしえなかったでしょう。ヨセフは謙虚にこのことを認めています。「スイスは人間の混乱と神の摂理で今日ある」ということわざがあります。ヨセフの生涯も、まさに人間の混乱の連続です。しかし、そこに一条の神の御手が働いてことをなしました。そこで、確かに「悪を善に変える」ことは、人間の力だけでできるものではありません。しかし、この人間の悪と混乱のただ中に、神の御手が働いています。それはもはや信仰の世界です。

  ローマ人への手紙も同じです。
「自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」
私たちは復讐、つまり悪に対して悪をもって仕返しする。そうするならば、ただ悪の循環、報復合戦になります。では私たちが自らの力でもって悪を善に変えるのか、そうでもありません。
「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」
悪に対して復讐するのは、人間の業ではありません。神は言われる「復讐はわたしのすることである」と。

  では人間のすることは何もないのか、私たちは神の操り人形で、神のなさるままなのでしょうか。そうではありません。神が復讐してくださるのだから、私たちのすることは、飢えている敵に食べさせることです。それは神の代わりにしていることではありません。神がすべてのことを良いようにしてくださるから、自分にできる小さなことをするにすぎないのです。そすることは、小さな奉仕ですが、現実には、「善をもって悪に勝つ」ことになるのです。私たちが自分の善で悪に勝つのではなく、神がすでに報復している勝利の中で、ただ私のなす小さなことをするのです。

  そこには確かな信仰がなくてはなりません。神が勝利しているという確信がなくてはいけません。ですから、これは信仰の業です。しかし、実際の生活でもそうなのでしょうか。本当に神は事をなさっているのでしょうか。

  ながい歴史の中で、事実神は働いて事をなしたまいます。まず第一に、十字架の業です。十字架は普通歴史的に見れば、イエスの敗北にすぎません。きっと十字架の直後、パリサイ人や祭司たちは、勝利の祝杯をあげたでしょう。弟子たちは逆に恐れて戸を閉じて隠れました。しかし、勝利は上から来ました。三日目に死人の中からよみがったのです。復活は勝利の出来事です。

  イエス・キリストは、この二千年の歴史の中で勝利してきました。日本の伝道の歴史を見ても、明治の初め、人びとはキリスト教を迫害し、これは日本の倫理道徳を破壊するものだと、しかし、ミッション・スクールの歴史は、この国におけるキリストの勝利を表しています。「負けるが勝ち」とよく言います。それはキリストの十字架と復活、そしてキリスト教の長い歴史の中に実証されています。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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