8月28日(日)「まだ終わりではない」説教要旨

           聖句
旧約
 「主は言われた、『出て、山の上で主の前に立ちなさい』。その時、主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし、主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた」  
(列王上19:11-12)


  新約
 「よく聞いておきなさい。これらの事がことごとく起こるまでは、この時代は滅びることはない。天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることがない」  (マルコ13:30-31)


   人びとは今の時代を末期的症状と見ています、今度の地震、津浪、異常な円高、ヨーロッパ、アメリカの不況、イギリスでの異様な暴動 中国の不気味な民衆の動き、異常気象 あげればきりがありません。しかし、イエスは言いました、
「人に惑わされないように気をつけなさい・・・また戦争と戦争とのうわさとを聞く時にも、あわてるな。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、また飢饉が起こるであろう。これらは産みの苦しみの初めである」(マルコ13:6-7)


  皆が常識的に「終わり」とか「末期的症状」と嘆いているのと、聖書で言う「終わり」とは、根本的に違います。「今は末の世」という考えは、昔から洋の東西を問わずありました。科学で言う「終わり」もあります。太陽が次第にエネルギーを失い温暖化どころか、冷却化して、人間は皆死ぬとか、世界の人口が膨大に増えて、資源が枯渇するとか。

  しかし、そんな話をしても何の益にもなりません。もっと身近な「終わり」があります。それは私の「死」です。これは宇宙の終わりよりも、はるかに身近で現実的です。「死」は、誰にでも必ず来るからです。キルケゴールは、『死に至る病』という本の中で、「死に至る病とは絶望である」と述べています。もし私たちが、この自分の死という確実な「終わり」を解決できれば、他の「終わり」は、少しも怖くないと思います。

  地震が怖いのも、放射能が怖いのも、実は、自分が死ぬのが怖いからです。もし「自分の死」の問題を解決しておれば、何も怖くないはずです。本当の死とは、肉体の終わりよりも、「絶望」ではないでしょうか。もし人が死に直面して、「希望」をもつことができれば、死は克服されたも同然です。

  ではその究極的に恐ろしい絶望を、どのように克服するのでしょうか。イエス言葉が
「まだ終わりではない」
と言われた根拠は、
「それは起こらねばならないが、これは産みの苦しみの始まりだ」
からです。戦争、地震、飢饉にしても、それらはみなキリストの言われる「新しいこと」の起こる始まりなのです。ちょうど妊婦が痛みを通して新しい生命を産み出すように、この人類の苦悩を通して産み出すものとは、一体何でしょうか。もしそれが分かれば、解決に一歩近づいたのです。

  今度の大震災で、多くの被災地の人との電話で、人びとの求めているものが分かりました。それは人間の根本にあるもの、今日の言葉で言えば「この人類の苦悩を通して産み出すもの」、それは私たち人間の生の根源にあるもの、キリストの言う
「まだ終わりではない、そこから産み出てくるもの」
「火の後にある静かな細い声」
です。

  この未曾有の災害で、確かに物質的援助は、第一に大切に違いありません。しかし、それ以上に、人びとの求めているものは、心の安心だったのです。「神よ、あなたは私の魂はあなたにむかって造られたゆえに、あなたを見いだすまでは、真の平安をえません」(アウグスチヌス)。物質が山と来ても、そこから立ち上がる勇気、力、やる気はどこから来るのでしょうか。ドイツで戦争の廃墟で人びとは立ち上がる勇気を失い茫然自失していました。一人の人が、「私たちの主イエスは死人の中からよみがえられた。私たちもやろうではないか」と言ったそうです。町は復興しました。「火の後にある静かな細い声」これをこそみなが求めているのだと知りました。

  ここに二つの「終わり」があります。一つは物質的、この世的終わりです。それは科学が示す「世の終わり」です。それは悲劇的で、悲惨です。けれども、もう一つ終わりがあります。
「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることはない。天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることがない」
科学のいう終わりは、イエス・キリストの言われる「天地は滅びるであろう」に当たります。すべて相対的なものは永遠ではありえません。人間も動物も死にます。しかし、それは相対的なものの死に過ぎません。キリストは言われました、「天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることがない」。つまり私を造ったお方を見いだすなら、創造の主にたどり着くならば、私のために死んでよみがえららたお方を見いだすなら、真の希望があります。私たちはこうして、あらゆる不安を乗り越えて真の平安に達した時、もう一度ふりかえって、私たちをおびえさせているものを見てみましょう。それは皆、「天地は滅びるであろう」に属するものではないでしょうか。 

  「静かな細い声」それは内容的には、イエス・キリストの十字架と復活にほかなりません。十字架は「神の苦悩」です。あなたがたが苦しんでいる時、神もまた苦悩しておられる。
「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ63:9)
しかし、十字架の主は、今十字架につけられ、死なんとする犯罪人に言いました。「今日、あなたはわたしと共にパラダイスにいるであろう」と。復活の主は、疑うトマスに言いました、
「あなたは見たので信じたのか、見ずして信じる者は幸いである」
「あなたがたは世にあっては悩みがある、しかし、勇気をだしなさい。わたしは世に勝っている」(ヨハネ16:33)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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