8月21日(日)「 名 の 効 用 」説教要旨

           聖句
旧約
 「わが僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」  
(イザヤ45:4-5)


  新約
 「ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った、『金銀はわたしにはない。わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』」  (使徒行伝3:4-6)


   聖書の中に多くあり、しかも聖書の中心思想であり、私たちもよく口にしながら、今日まで、有名な神学者も信仰者も、あまり強調していないで、忘れている言葉があります。それは「名」という言葉です。

  私たちは主の祈りで一番最初に、「願わくは御名をあがめさせたまえ」と祈り、すべて祈りの終わりに「イエス・キリストの名によってお願いします」と言います。しかし、今日まで、この「名」を強調した神学者は見たことがありません。

  私自身「名」の意味が分かったのは、ドイツへ行って勉強してからです、モルトマンの神学書にベンヤミンの言葉が、しばしば引用され、それが時としてすばらしく胸を打つので、ベンヤミンを調べました。今村仁司という学者のベンヤミンに関する本を読んで驚いたのは、そこに「ベンヤミンにとって真理とは、事物、人物に名を与えることだ」と書いてあったことです。

  これまで真理とは、「言葉と事実が一致する」ことだと言われました。しかし、それは当たり前の普通の真理です。もっと深い真理ではありません。ベンヤミンは、創世記の、アダムが動物に名を与えるところから、この考えを学んだようです(創世記2:18以下)。

  私たちは、子供が生まれると最初に名前をつけるではありませんか。そしてその名は、あなたただ一人のもの、この全世界でたった唯一のものであります。それはイエス・キリストが、九十九匹を野において、ただ一匹の迷う羊を捜し求めることに、また
「これらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわちわたしにしたのである」(マタイ25:40)
と言われたことに現れていませんか。ここにこそ真理がある。それは「私なんかどうでもいい人間だ」と思っている弱い人に、驚くべき力を与えます。「あなたは全世界でたった一つの名をもっているのだ」と、「神は私をその名で呼んでくださる」、たとい私が神を知らなくても。何とすごいことをイザヤは言うのでしょう。あなたは世界でたった一人唯一大切な人なのです。これが真理です。神の愛の真理です。   
  • 1.まず神に名があります。(その名はヤハウエ「私はならんとするものになる」意)
  •   
  • 2.私たちは神の名を呼びます。
  •   
  • 3.次に神が私の名を呼びます。たとい私が神を知らなくても。
  •   
  • 4.さらに私たちが互いにその名を呼びあいますその時、世界は平和になります。


  名というのは、決していわゆる「名称」ではありません。あくまで個人名です。アダムが動物に与えた名は、決して「犬」とか、「牛」とか種族名を与えたのではありません。もし種族名なら、アダムは動物を支配したことになります。そうではなく真の「わたしと汝」が成立したのです。そしてその人を個人名で呼び、そこにその人の無限に貴い名を見いだした時、初めて私は相手を真の人として貴び、「汝」として交わるのです。

  アルジェリアで軍隊に守られ、そこには九カ国の人が働いて工場を建設した時、この多様性をまとめたのは、「グッドモーニング、誰々さん」と名を呼ぶことだと聞いて驚きました。会社というものは、およそ「名」とは程遠いもの、会社で大切なのは、能力です。その会社で、「名」が大切というのは、人間を大切にすることは、本当に仕事をやって行く上でも大切なのだと知りました。たいがい家庭、会社、学校で大きな問題が起こる時は、この名が忘れらていたのではないでしょうか。

  もう一つ大切な「名」の効用があります。私たちは、あるまとまりでものを考える癖があります。それは近代の学問が分類をするからです。鬱病とか統合失調症とか、そういう病気はなく、ただ実際にあることで苦しんでいる人がいるのです。それは精神医学という学問がこしらえた名称に過ぎません。そのほかいくらもあります。「あれはクリスチャンだ、あれは創価学会だ」、その時、私たちにあるイメージができます。そうではなく、一人一人の人間が生きているのです。

  
「金銀はわたしにはない、わたしにあるものをあげよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」
ペテロが言ったこの言葉、これが教会の使命ではないでしょうか。イエス・キリストの名によって祈る時、イエス・キリストもまた共にいまし、生きて働きます。名を呼ぶ時、いやしが行われます。カウンセリングの真理も同じです。

  私たちが祈る時、ひょっとして御利益宗教と同じように、私の利益が中心ではないでしょうか。神の名が、イエス・キリストの名が貴ばれているでしょうか。
「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば与えられるであろう。そしてあなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」(ヨハネ16:24)
愛とは、「名を呼ぶこと」です。決してその人の学校とか能力とか、美貌を愛しているわけではありません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2010 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.