8月14日(日)「科学で分からないこと」説教要旨

           聖句
旧約
 「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」  
(伝道の書3:11)


  新約
 「実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこであなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるから、手で造った宮などにはお住みにならない」  (使徒行伝17:23-24)


  日常生活や信仰とかかわることで、「科学にできないこと」は大きく言って三つあります。

  第一科学では、私たちが「どこからきてどこへゆくか」分かりません。科学に進化論というのがあります。進化論は、ある素朴なものから高等な生物へと進化した過程を述べますが、その最初のものは「どこから」来たのかという究極の問いには答えられません。人間は猿と同じ祖先からできたといっても、四百万年前のことです。人間の人格はどうしてできたか、自然科学では説明できません。それどころか、生命の起源は分からないし、今後科学が発達しても分からないだろうと言っています(ホーガン『科学の終焉』)。

  ましてさらに宇宙の初めについては、何も言えませんし、物質の前に何かがあれば、それはどこからと問い詰めてゆけば、無からの創造とでも言わなければ説明できません。このように「私たちがどこから」ということは、科学で絶対に分かりません。 

  また反対に「どこへ行くのか」、進化の最高が人間だとして、この人間はどこに行くのでしょうか、それは科学で分かりません。テイヤール・ド・シャルダンという神父さんは、同時に生物学者で北京人類の発掘にもかかわった立派な自然科学者であります。彼は生物学者として「進化論」を認めますが、神学者として、進化の究極をオメガ点と言い、それはキリストであると申します。こうして進化論を含んだ神学の書をいくつも書いています。

  またベルクソンは、信仰をもった科学者で、「創造的進化」といいます。進化には「創造的飛躍」なしにはありえないと言います。「創造的進化は、創造する進化ではなく、そこで創造が行われる場としての進化です。つまり神の創造が行われる場としての自然進化という説」です。

  つまり初めの創造のほかに、継続的創造があるわけで、神の創造と進化論は矛盾しないことになります。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」の御言葉を思い起こさせられます。

  第二に、自然科学で分からないことは、「この人生の意味は何か」ということです。これは科学にできないというより、もししたらそれは自然科学ではなく、哲学になってしまします。

  しかし、「この人生の意味は何か」という問いほど、私たちに身近かな問題はありません。私たちはすべて死にます。その時、人生の意味を問います。三歳で死んだ子の人生の意味は何か。それに答えるのは、私は、イエス・キリストの復活以外にないと思います。この生きている人生だけが生ではなく、さらに新しい生があること、それが復活の慰めです。
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるから、手で造った宮などにはお住みにならない。・・・神はそのお選びになったお方を死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17:23-31)


  第三に人生の出会いの問題を解決できません。銭を投げて表が出る確率と裏が出る確率は50パーセントでしょう。しかし、この次ぎは表か裏かは、神さま以外に分かりません。また手術を受ける人が、医者に「手術はうまく行くか」心配して聞いた時、賢い医者言います、「私は最善をつくす、しかし、成功かどうかは、神さまに聞いてください」と。出会いは神さま以外に分かりません。 

  この三つで、最終的に問題になるのは、信仰そして「祈り」だと思います。ある戦場カメラマンが、戦場で悲劇的出来事に何度も出会う、そのすべてに通じるのは、「祈り」だと言いました。彼はアフリカや中近東、いろいろな例を写真で見せましたが、印象的だったのは、旧ユゴーの分裂において、セルヴィアのコソヴォの紛争でセルヴィア人とアルバニア人の多くが死んだ。そこに教会が建っていた例であります。その「祈り」は深く、長く、また私たちの心を打ちます。

  科学で解決できることに、信仰をもちだすのは、注意しないと行けません。もちろん科学で解決できる場合でも、その意味は信仰からきます。たとえば手術をしなければならない病気なのに、お祈りで治すと言えば迷信でしょう。しかし、手術が成功かどうかは、分かりません、その時、祈ることは必要です。それは人間の苦悩に呼応する神の痛みであり、神の苦悩ではないでしょうか。
「そして主は彼らの救い主となられた。彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛と憐れみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ63:8-9)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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