8月7日(日)「信仰の賭け」説教要旨

           聖句
旧約
 「モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救いを見なさい。きょうあなたがたはエジプト人を見るが、、もはや永久に二度と見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい』」  
(出エジプト14:13-14)


  新約
 「信仰によってアブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼はゆるがぬ土台の上に建てられた都を待ち望んだのである。その都をもくろみ、また建てたのは神である」  (ヘブル11:8-10)


   「信仰は賭けである」と言ったのはパスカルです。「賭け」は、「ギャンブル、博奕」とは違います。「博奕(ギャンブル)」とは、サイコロでも花札でもトランプでも何かを用いて、勝者が敗者から金なりものなりを巻き上げる勝負を言います。そこには大儲けをする者もいれば、大損する人も出てきます。「賭け」では、ギャンブルや博奕のように、損する人は問題になりません。しかも「賭け」という言葉は、物質的なことばかりでなく、精神的なことにも使えます。「賭け」というのは、「一か八か」という、見えないことに飛び込むことを言います。信仰はどうして「賭け」なのでしょうか。今日のアブラハムのことを見てください。

  
「信仰によってアブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」
アブラハムは行く先を知らずに、ただ神のみを信じて出かけたのです。そこで、このアブラハムの信仰的賭けは、スポーツの選手や商売人の賭けとは、まるきり違います。なぜなら、信仰の賭けは、神に向かって賭けるからです。スポーツや商売は、ある何ものか、運命とか宿命に向かって賭けるのです。もちろん信仰深い、スポーツ選手もいれば信仰する商売人も数多くいます。そういう人はスポーツにおいて商売において、神さまに賭けるかも知れません。もし神に向かって賭けるならば、その時、スポーツにしても商売にしても、それはアブラハムと同じ信仰の行為にほかなりません。 

  私は二十歳のころ、キリスト教にしようか親鸞にしようか迷いました。親鸞聖人は言いました、「念佛はまことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり。たとい法然聖人にすかされまいらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(歎異抄)。「法然聖人にだまされても」、

  この信仰は、ある意味で「賭け」ではないでしょうか。親鸞かキリストか迷ったあげく、最後の体験、それは病のただ中で、植村正久の「黒谷の聖人」を読んだ時、はっきりと示されました。それは十字架でした。阿弥陀仏は、実在の人間ではなく理想仏でした。しかし、イエス・キリストは実在の人でありつつ神でした。「このままに朽ちんも今は喜びあり、主イエスの恵み満てる我には」という歌が口をついて出てきました。

  この「賭け」の回答は向こう側から来ました。イエス・キリストは、神の子は私の罪のために十字架にかかった、それは紀元三十年の過ぎ越の翌日金曜日です。ではもう一つ、その十字架にあなたはなぜ賭けるのか。

  私は、そこで神の人が死んでいるからです。しかも、その方は何の罪もなく、その十字架はただ民衆への愛のため以外にありません。その十字架に私自身を見いだすからです。 「十字架は救いに至る道か、それとも地獄におちる道か、総じて存知せざるなり」とは言いません。それは私たちの側からの懴悔道ではありません。向こう側から来るものです。

  
「モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救いを見なさい。きょうあなたがたはエジプト人を見るが、、もはや永久に二度と見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい』」
私たちは黙している、しかし、「主があなたがたのために戦われるから」、モーセはここで、民に神にかけることを命じました。「あなたがたは黙していなさい」とは、まさに賭けです。しかし、そこには「主があなたがたのために戦われるから」。主がそこに厳としておられるのです。

  親鸞の場合、確かに「賭け」ですが、キリスト教信仰は、「賭け」の要素が確かにありますが、厳密な意味では「賭け」とは少し違います。それは十字架、復活があるからです。向こう側があるからです。 私は多くの宗教を迷いつつさ迷いましたが、どこにもこのイエス・キリストの十字架と復活に当たるものはありませんでした。復活は、この十字架にかかられたお方が、勝利者であるしるしです。
「あなたがたは世にあっては悩みがある、しかし、勇気を出しなさい、わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)
そこには、賭けはありません。あってもそれは勝利する賭けです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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