7月24日(日)「  放念-あきらめではない 」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるさない」  
(詩編55:22)


  新約
 「だから神のみ旨ねに従って苦しみを受ける人びとは、善を行い、真実であられる創造者に、自分の魂をゆだねるがよい」  (Ⅰペテロ4:19)


  「放念」、「放下」、「離脱」、いずれも信仰的な言葉で、「心配しないで、神におまかせすること」を意味します。エックハルトは言います、「純粋な離脱(放念、放下)は何ものにも勝っています。なぜなら、あらゆる徳は、なんらかの形で造られたものに関心を示しますが、しかし、離脱は造られたものに束縛されないからです」。

  ルカ10:42以下に、マルタとマリアという姉妹が出て来ます。姉のマルタはやりてで、何でもてきぱきとこなします。マリアはそれに反し、おとなしく霊的です。ここでイエスはマルタに言われます、
「マルタよ、思い患うことはありません。純粋でありたいと思う者は一つものをもたねばなりません」
この一つとは「放念」「離脱」です。マルタは、何でもできる人です。しかし、それだけにイエスさまにごちそうしようと、いろいろ思い煩います。その時、彼女は大切なことを忘れていました。今日の御言葉で言えば「主はあなたを支えられる」、つまり「神がなしたもうこと」を忘れたのです。旧約聖書の箴言に、
「人の心には多くの計画がある。しかし、ただ主のみ旨ねのみがなる」(19:21)
また
「心にはかることは人に属し、舌の答えは主から出る。人の道は自分の目にはことごとく潔しと見える。しかし、主は人の魂をはかられる。あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、その計るところは必ずなる」(16:1-3)
とあります。

  イエスは、マルタがてきぱきやることを批判しているのではありません。マルタが実に、そのてきぱきさの中で、たった一つのことを忘れていることを指摘したのです。それは神の言葉です。マルタは「人の道は自分の目にはことごとく潔しと見える」とあるように、自分の思っていること、やっていること、その順序を含めてすべて正しいという確信がありました。だから暇に見える妹のマリアの態度が気に食わなかったのです。まさにマリアは、マルタが忘れていたそのことをしていたのです。
「しかし、主は人の魂をはかられる。あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、その計るところは必ずなる」
このことをマルタは忘れていたのです。やることはよいことです。てきぱきすることは一層良いことです。しかし、そのため大切な神の言葉を忘れていることはよくないことです。

  今日の題は、「放念-あきらめではない」とあります。自分のことをすべて投げ出すことが、「放念」です、また「放下」、「離脱」です。そこにはあえてやらない、「放りだす」ことがあります。そこには否定的な面があります。「やらない」。しかし、同時に肯定的な面もあります。「まかせる」、「まかせきる」ことです。「きる」があるとないでは大違いです。これが信仰へと高めます。「放りだす」、「投げ出す」こと、それは実務家からみれば、「あきらめ」に見えます。マルタという超実務家には、マリアというこれまた超信仰家が、無為無策の怠け者に見えました。神に向かって投げ出すことは、決してあきらめではありません。それはマルタ以上に実務的なことなのです。

  したがって、それは「放念」、「放下」、「離脱」は、決して神の中に憩うて、何もしないのではありません。放念-それはあきらめではありません。無為、徒食ではありません。それは神から力をもらって、抵抗することさえ意味することがあるのです。「ただ可能な限り、解放された世界の中で信じつつ、いわば自己の実存の形を通して、あらゆる不可避の抵抗をするのです。原始キリスト教会は、ローマ帝国に対して抵抗しました」。

  ですから本当の神をもたなくてはなりません。神は人間やそのほかあらゆるものの考え及ばない、はるかに高いものです。現実の世界からの逃避など問題外です。この神は近くにいます神、あらゆるところに遍在する神です。神の現存が輝くようにしなさい。さらにどんなものごとにも捕らわれたり、執着したりしなくなり、ものごとを目の前にして、まったく自由でいられるようになるためそうしなさい。これが放念、放下、離脱です。

  そのとき、内面で受け取ったものを実際の行為に結びつけることが大切です。その意味で究極的には、マリアでなく、マルタが大事になります。恍惚とした至福感や宗教的なわざとらしさにひたっている人間ではなく、むしろ成熟し、確固とした徳をもち、憂いのない心をもち、何事にも妨げられず、しかもこの現世で活動している人間が、放念、放下、離脱に生きる真の人間なのです。 「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるさない」、「だから神のみ旨ねに従って苦しみを受ける人びとは、善を行い、真実であられる創造者に、自分の魂をゆだねるがよい」。これを一言で言えば、
「あなたは立ち返って静かにするならば救いを得、穏やかにしてより頼むなら力を得る」(イザヤ30:15)
です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2010 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.