7月17日(日)「  あなたは誰か 」説教要旨

           聖句
旧約
 「わたしはまた主の言われる声を聞いた、『わたしは誰をつかわそうか。誰がわれわれのために行くだろうか』。その時、わたしは言った『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』」  
(イザヤ6:8)


  新約
 「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしを誰と言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。するとイエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である』」  (マタイ16:15-17)


  私たちはよく「小さい時のことは覚えていない」と言います。しかし、三歳位までのことは「忘れた」のでなく、「自意識がない」のです。生まれたての子は、まだ自意識が発達していません。皆さんは、何歳位までのことを覚えていますか。それは、おそらく自意識ができた時だと思います。人によって差異はありますが、大体三歳が境ではないでしょうか。これは自分という意識で、それは自分と同じ、他者を自覚できた時です。しかし、人の発達には、もう一つの時期があります。それは思春期です。まず異性を自覚するようになります。さらに自己、自我が確立し、自分の性格とか、将来の設計を考えるようになります。これが第二の段階、自我の確立です。

   しかし、「私とは誰か」ということを、さらに聖書から考えて見ましょう。それはこれまでの二つの段階を前提にし、さらに一歩前進したものです。今日の聖書の一つはイザヤの召しです。神が
「わたしは誰をつかわそうか」
と言われたその時、イザヤは
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」
と答えました。ここでは、私とは誰かということは、神から来ます。もう一つマタイ福音書の言葉、イエスが弟子に問われるのです、
「あなたがたはわたしを誰と言うのか」。


  さらにもう一つ、イエス・キリストが湖を歩いて来て、
「われなり、おそるな」
と言われたことをあげましょう(マタイ14:27)。一体、この世に「われなり、恐れるな」と言える人がいるでしょうか。孔子もカントもヘーゲルもそうは言いません、ソクラテスは、私は何も知らない。無知だけを知っていると申しました。悟りの境地に達した釈尊も、「われなり、おそるな」とは申しません。聖書に出てくる預言者、使徒たちは、「この人を見よ」とは言いますが、「わたしである、恐れるな」とは言いません。そう言える人は、神的権威をもっている方です。

  私たちは今、「われなり、おそるな」と言える唯一の方の前に立っています。そしてこの方は、私たちにいや、私自身にたずねます、「あなたは私を誰と言うか」。またイザヤに言ったように「わたしは誰をつかわそうか。誰がわれわれのために行くだろうか」。その時、わたしは言った
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」
こう答えるところ、そこに、第三の自分自身が目覚めます。

  第一の自意識の目覚め、第二の自我の確立の場合も、そこには本当の意味の他者がいません、いても私の自我のまわりにいるもので、あくまで私中心です。しかし、この聖書の第三のものは、全く違います、その方から私自身に問いかけます。
「あなたはわたしを誰と言うのか」「われなり、おそるな」
と、この私に問いかける者、それはブーバーの言う、大きな「汝」であります。「私たちがそれについて語る神は本当の神ではない。その方に向かって語る神、いやその方から語りかけられる神、私が答えなくてはならない神、それが本当の神である」。この問いかけに答える時、真の自分自身が生まれるのです。これを「新生、悔い改め」と申します。

   前に述べた偉い人は、釈迦でも孔子でもソクラテスでも、その人の説く教えによってその人とつながるのです。しかし、イエス・キリストの場合は違います。私たちは決してイエスの教えとだけつながるのではありません。イエス・キリストを私を罪のためにあがないの死を遂げてくださった方として信じるのです。イエスはただ水泳法の講義をする人でしょうか。それとも溺れている人に、自ら飛び込んできて、岸辺に命懸けで連れて行ってくれる方でしょうか。

  中学生が遠足で川に溺れそうになった時、数学の先生が、川に飛び込んで助けてくれました。しかし、その先生は死んでしまいました。その中学生にとって、その先生は、ただの数学の先生でしょうか。そうではありません。命の恩人であります。

  ではあなたにとってイエスは、あなたに大変良い教えを講義した人でしょうか。それとも、あなたのために死んでくださった命の恩人でしょうか。このお方はあなたの生と死にとって何ですか。ハイデルベルク信仰問答の第一問、「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めはなにですか」。「わたしの生きている時も死ぬ時も、私の真実なる救い主そのものです」と答えられるでしょうか。すなわちイエスはあなたにとって神そのものでしょうか。イエス・キリストは勝利者。「あなたこそ生ける神の子イエス・キリストです」との答え。そこには、もう一つの言葉、「われなり、おそるな」が立っています。

  そこで第三にイザヤの召命の言葉になります。「わたしは誰をつかわそうか。誰がわれわれのために行くだろうか」。その時、わたしは言った「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と。

   「召命」は、ルター以来職業という意味になりました。そこに世俗的職業でも神の召しがあるのです。しかし、私たちにはもう一つの顔があります。それは今言った「われなり、おそるな」と言われた方を伝える使命です。全世界は、根底にあるものについて悩んでいます。「あなたは誰か、私は誰か」、その問いの向こう側には、「あなたはわたしを誰というか」、「われなり、おそるな」が立っています。この方を伝える使命を私たちはもっています。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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