5月8日(日)「 義人にして罪人 」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわが僕は、その知識によって多くの人を義とし、また彼らの不義を負う」  
(イザヤ53:11)


  新約
 「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、私たちもキリスト・イエスを信じたのである。それは律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである」  (ガラテヤ2:16)


  マルチン・ルターは、修道院にはいり難行苦行をして、信仰の義に到達したいと思いました。しかし、どんなに行いを積んでも、真の平安は得られず、まだ足りないと思わせるだけでした。

  ある時、疲れ果てて、修道院の床に倒れ臥しました。その時、シュタウピッツという人に、ローマ書の一節を示されました。それは、今日の聖書のガラテヤの言葉と同じ言葉です。

  ここで
「私たちがイエス・キリストを信じる信仰」
の前後を囲んでいる、
「キリスト・イエスの信仰[真実]」
の語が二つあります。これを日本語訳では、
「キリストを信じる信仰」
としていますが、原語では、ただ 「キリスト・イエスの信仰」です。この「キリスト・イエスの信仰」は、私たちがキリストを信じる信仰でなく、「キリストが私たちを信じてくださる信仰」(神の真実)です。

  信仰者は、時々こう言います、「私はもう洗礼を受けて20年になるのですが、行いの方は一向進歩していません」と。その場合、信仰を道徳と勘違いしているのではないでしょうか。それはこうです。「古い自分が、信じて洗礼を受けて、新しい自分になる、つまり悔い改めて、良い人間になる」と。こういう信仰には、大切なものが欠けています。全部「自分が主語」になっています。

  まず「古い自分」です、そして「自分が信じて」、「自分が洗礼を受けて」、「新しい自分になる」、「自分が悔い改めて」、「自分がよい人間になる」。見てご覧なさい。全部主語は「自分」です。どこにも「キリスト」も「神さま」もでてきません。そこには「キリストが私たちを信じてくださる信仰」がありません。

  ルターは回心した時、「私たちは全く罪人にして、同時に全く義人である」と言いました。「悔い改めて、良い人間になる」という、道徳的図式はどこにもありません。こうなります。「キリストを信じた」、それは、第一には、「私が主語ではありません。私がキリストを信じたのではありません」。キリストがこの罪深い私を信じて義としてくださったのです。私たちのこれまでの、道徳的信仰は、大転換をしなくてはなりません。「私がキリストを信じたのではない、イエス・キリストの方から、私を信じてくださったのです」

  ですから、「私が悔い改めて、良い人間なる」のではありません。私は、全く罪人のままです、しかし、イエス・キリストの信仰のゆえに、私はその罪人のままで、全く義人となるのです。「全く罪人にして、同時に全く義人」なのです。この罪のままの人が、義とされる。それは道徳的な変化ではありません。もっと信仰中心に宗教的に起こった出来事です。信仰とは、この古い私に、神のキリストの出来事が起こったのです。それは全く一方的、神の側からです。私の側からは、その出来事を信じることのみです。この信仰的一大出来事を、分かりやすく説明するために、いくつかの具体的例でお話ししましょう。

  イエスが山で祈っている間、弟子たちは自分たちだけで船を漕いでいました。そこへ大嵐が起こって船は転覆しそうになりました。イエス・キリストが現れて来たので、ペテロは、もしあなたがイエスなら、私が水の上を歩いてみもとに行かせてくださいと言います。イエスは、
「来なさい」
と言います。ペテロは、まっすぐにイエス・キリストを見つめて進めばよかったのに、波風を見て恐れ、沈みそうになります。「助けてください」と叫びました。イエスの手が伸びて彼を支えました。ここでペテロは何をしたのでしょう。
「助けて」
と叫んだだけです。救いは、伸ばされたイエスの手です。ペテロの信仰ではありません。イエス・キリストの信仰です。キリストがペテロを信じて手を伸ばされたのです(マタイ14:22-33)。

  もっと身近かな例。難破船に会い、救命いかだに皆、ぶらさがっています。手がくたびれていかだから手を離せば、海に沈みます。しかし、いかだの上に力強いお方がいて、私の離す手をしっかりとつかんでくださるなら、私たちは救われます。私たちのいかだをつかんでいる手は、道徳です。その手をしっかりとつかんでくださる手、それはイエス・キリストの信仰です。

  さらに年とってあるいは病気のために、私自身信仰が分からなくなる時がきます。そこでも真に働くのは、イエス・キリストの信仰です。その時、「私がキリストを信じている信仰は駄目になります」。しかし、キリストが私を信じてくださる信仰は駄目になりません。

  「全く罪人にして、同時に全く義人」二つは同時発生です。それはイエス・キリストの御業にほかなりません。では良き業はいらないのか。良き業は、この神の真実に対する「ありがとうございます」だけなのです。そのことがはっきりしている時、私たちは変わって来るはずです。自分中心の良き業、道徳主義ではなく、神中心の新しい信仰に目覚める時、私たちはすっかり変わっています。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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