5月1日(日)「 生への然り 」説教要旨

           聖句
旧約
 「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る」  
(詩編36:9)


  新約
 「神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、『しかり』と同時に『否』というようなものではない。なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである」  (Ⅱコリント1:18-19)


  私たちの生活には「しかり」もあれば、また「否」もあります。病気は「ノー」です。入学は「イエース」です。このようにふつうの生活では、ノーとイエースがはっきりしている場合があります。しかし、信仰においては、そうではありません。

  パウロは今、
「『しかり(イエース)』がイエスにおいて実現されたのである」
と言います。もちろん、私たちの信仰生活の中にも、必ず「しかり」もあるし、「否」もあります。けれども、信仰においては、否が最後に来ることはありません。最後に来るのは、必ず「しかり、イエース」であります。

  信仰の世界では、たとい否があっても、否を乗り越えて、「しかり、イエース」が最後にくるのです。イエス・キリストのご生涯が、十字架で終わったのではなく、復活が続きます。今、パウロは、
「あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである」
と言っています。

  私たちの中には、主として「否」を言う人と、主として「しかり」を言う人がいます。それは性格によります。ネアカの人は、どちらかと言えば、「しかり、イエース」がより多く、ネクラの人は、どちらかと言えば、「ノー」の方が多いかも知れません。

  しかし、今ここで問題になっていることは、人間の性格のではありません。信仰です。ですから、信仰においては、たといネクラの人でも、その否定的性格に打ち勝ち、それを肯定へともって行けるのです。逆に、性格的にネアカの人でも、その人の肯定的、「イエース」は、もう一度、否定を通って、ねりなおされなくてはなりません。

  ここでパウロの問題は、コリント行きの計画のことです。パウロのコリント訪問の計画は、決していいかげんなものではありません。慎重に、綿密に計画をねったものです。しかし、人間の計画は、たといどんなに厳密でも、時間と共に、環境は変わってゆきます。そして計画の真実は変わらないけれども、状況の変化によって、私たちの計画そのものは変わることがあります。

  「あなたは変わる」と言われた時、内村鑑三は言いました、「変わらざらんか、われは死せんのみ」、変わらなければ、進歩もなく、人間は死ぬのみだ、と。パウロは自分の旅行計画を、「恵み」と呼んでいます。私たちの中で、自分の計画を「恵み」と呼ぶ人があるでしょうか。しかし、私たちの人生の計画はみな恵みにほかなりません。私たちはとかく恵みを忘れて、自己の計画をたてます。それでいつも変更を恐れています。また人が変更する時、相手を責めます。しかし、変更もまた恵みなのです。愛の心から出た変更は、神の恵みですらあります。状況を無視して強引にやれば、それは、神のみ旨ねにそむくことになります。新しい状況にも、神の真実は支配しています。

  時としてこの否を貫いて、神の真実が実現する場合もあります。「スイスは人間の混乱と神の摂理によって今日ある」と言われます。その歴史は多くの人にとって「人間の混乱」としか映りません。しかし、その人間の混乱の中に、一筋の神の摂理が行われていることを、スイスの人は信じました。預言者の輩出した時代は、イスラエルの混乱の時代でした。バビロニアの捕囚も、イスラエルの信仰を浄化する働きをしました。あのイエス・キリストの十字架は、福音書を見れば分かる通り、人間の混乱の中で行われ、ついに人間の悪が勝利するかに見えました。しかし、それは復活の勝利に輝くのです。イエスを十字架につけた人の名は残りませんが、イエスの御名は、二千年を越えて続きます。

  しかし、「しかり」と「否」は、客観的事態である場合と、それに対する私たちの見方である場合があります。「この家は庭が広くてよいね」と言えば、「いや部屋数が少し少ない」と否定的に見ることもできます。否定的なものでも信仰は肯定的に変えます。病気は、客観的に見れば悪いことで、否です。しかし、パウロはそれを肯定的に変えました。「私を傲慢にしないために、私を打つサタンの働きだ」と。そこで神のみ声を聞くことができました。
「わが恵みなんじにたれり。わたしの恵みは弱いところに完全に現れる」
「み旨ねによって召された者、神を愛する者には、すべてのことが相働いて益となる」(ローマ8:28)


  そしてその直前の言葉は、
「そして人の心を探り知る方は、御霊の思うところが何であるかを知っておられる。なぜなら、御霊は聖徒のためにとりなしをしてくださるからである」
御霊のとりなし、それが悪いことをよいことに益に変えるのです。それは祈り求めることから来ます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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