3月20日(日)「神の真実とキリストのとりなし」説教要旨

           聖句
旧約
 「彼は自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のためにとりなしをしたのは、この人であった」  
(イザヤ53:12)


  新約
 「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださるからである」  (ローマ8:26)


   普通「とりなし」と言うと、互いに理解し得ない間に入って和解を計ることです。聖書ではそれが「神と人間」の間になります。神から離れている人のために、代わって神に祈り神との仲介をすることを言います。人は多く自分自身のために祈ります。しかし、「とりなしの祈り」は、他者のためその救いのために神に祈ります。とりなしの祈りほど崇高なものはありません。その最高はキリストが十字架の上で、
「父よ、彼らをゆるしてやってください。そのやっていることが分からないのですから」(ルカ23:34)
と祈られた祈りです。自分を十字架にかけている、その者のために祈る、これほど崇高な祈りがあるでしょうか。

  イザヤ書の神の僕は、
  • 1.「自らをなげうち」
  • 2.「死にました」
  • 3.「罪人のひとりに数えられ」
  • 4.「多くの人の過ちを担い」
  • 5.「背いた者のためにとりなしをしました」
これこそ受難週で学ぶ、十字架のキリストの姿でなくて何でしょう。 とりなしの人は自分があってはいけません。自分があるなら、それはとりなしではなく、自己宣伝か売名に過ぎません。キリストには自己宣伝はありません。「自らをなげうちました」。そして「死にました」、それだけでなく、「罪人のひとりに数えられました」。なぜ罪人のひとりに数えられたのでしょう。それは「多くの人の過ちを担い」「背いた者のためにとりなしをする」ためにほかなりません。

  ということはイエス・キリストは、その肩に、私たち自身の罪をも担われたのです。私の罪は、もはや私の肩にはなく、キリストの肩に、十字架の上にあります。かって洗礼を受けた人が「軽き荷を重き荷物と思いつつ、背負い来たりし、幾年月ぞ」と歌いました。イエスはあなたの肩から重荷を取り除いたのです。あなたは、今、自分の罪に苦しむ必要はありません。

  姜尚中『悩む力』という本の中に次の言葉がありました。  「『青い夜空は星の海よ、人の心は悩みの海よ』、ため息をもらしながら、涙声で母が口ずさんでいたアリランの一節です。今にして思えば、母の抱えていた悩み、その苦悩は、海のように深く、広かった分、母は人として生きる価値を見いだすことができたのかも知れません。アウシュヴィッツを生きたフランクルは『苦悩する人間は、役に立つ人間よりも、価値の序列は高いところにいる』と述べています。この言葉で母を思い出します。悩みの海を抱えていたからこそ、生きる意味への意志がなえることがなかったのだと思います。この意味で母は幸せだったのかも知れません。少なくとも、伝統的な慣習と信仰心を失わなかった母たちの世代には、悩みの海の夜空に輝く星がはっきりと見えたはずです」。 

  ローマ書には、
「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださるからである」
とあります。これは聖霊のとりなしです。ここには、まず第一に私たちの弱さがあります。どんなに強がりを言っていても、「強がり」は、弱さの反面で、弱さを隠す方便に過ぎません。その弱さは、「私たちはどう祈ったらよいかわからない」、祈りの手段さえ消えうせるほどの弱さです。その弱さのところが、聖霊の働く場所です。強いところに聖霊は働きません。「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださる」。

  「助ける」とは、「共に」「代わって」「受け取る」の三語からなっています。また「とりなし」は、「ために」「中に」「出会う」の三語からなっています。ですから御霊のとりなしは、まず「私たちと共に、私たちに代わって、引き受ける」てくださるのです。その結果、「私たちのために、私たちの中に、出会う」のです。フランクルは言いました。「人は相当なことに耐える力をもっているが、意味の喪失には耐えられない」と、事実、彼より丈夫で若いひとが倒れ、彼自身生き残れたのは、苛酷な扱いを受けながらも、生きることの意味を確信し続けたからだそうです。私たちは、苦難の中で、イエス・キリストと聖霊のとりなしを信じなければなりません。

  私たちはふつうの時、祈ります。また苦しみのある時、もっと祈ります。しかし、本当に苦しみが大きいと、祈れなくなります。そしてさらに死に直面するような苦しみに会うと、思わず知らず、誰でも、信仰のあるなしにかかわらず、それこそ必死で祈ります、「神よ、助けてください」と。それはここにある「聖霊の言葉に言い表せない切なるうめきによるとりなし」を受けたのです。

  
「神は真実なお方ですから、あなたがたを耐えられないほどの苦しみにあわせたまわない 。苦しみと共に、苦しみから逃れる道をも備えたもう」(Ⅰコリント10:13)
それが神の真実です。そこで本当のとりなしは、イエス・キリストにしかできない、聖霊にしかできないのです。にもかかわず私たちが、とりなしの祈りができるのは、このイエスのとりなしに基づいてです。そして不思議なことに、この聖霊のとりなしが起こる時、「すべてのことが相働いて益となるのです」。悪いことも善いことと共に働いて益となるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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