3月6日(日)「 神の言葉の飢饉 」説教要旨

           聖句
旧約
 「主なる神は言われる、『見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る。それはパンの飢饉ではない。水にかわくのでもない。主の言葉を聞くことの飢饉である」  
(アモス8:11)


  新約
 「そこで十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、『私たちが神の言葉をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない』」  (使徒行伝6:2)


   預言者アモスは、紀元前八世紀に現れました。当時は比較的豊かな時ですが、貧富の格差が激しく、宗教的、道徳的に腐敗堕落した時代です。それは今の日本とよく似ています。それゆえ預言者アモスが語った言葉は、実に今日の世界にぴったりです。
「主なる神は言われる、『見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る。それはパンの飢饉ではない。水にかわくのでもない。主の言葉を聞くことの飢饉である』」。
確かに私たちの回りに、パンの飢饉も水にかわくこともありません。では何が今の社会で足りないのか。「これは神の言葉を聞くことの飢饉である」。ある人がこう言いました。「政治の背後には文化がある。そして文化の背後には宗教がある」と。政治を経済。教育・文化・仕事と言い換えてもいいでしょう。

  私たちがウイークデーに過ごし、毎日出会っているもの、それは政治、経済、教育、文化などです。しかし、その背後に宗教があると考えたことはありますか。日本人は「宗教の音痴」と言われています。しかし、それなら宗教音痴という宗教があるのです。それは御利益とオカルトの宗教です。その宗教は人をマヒさせ、人を目覚めさせず、眠らせます。だからもう一度「神の言葉」に立ち返りましょう。

  
「あなたがたは立ち返って、静にするなら救いを得、穏やかにしてより頼むなら力を得べし」(イザヤ30:15)
神に立ち返るとは、神の言葉に聞くのです。あなたの問題、日常生活の卑近な問題、お金の問題、その背後には宗教があるのです。これは金の乏しいのではない、物の飢饉ではない、「神の言葉を求めることの飢饉である」とアモスが、今生きていたら言うでしょう。

  使徒行伝では
「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた」
とあります。何とこれは信仰や神学の問題ではありません。初代教会の初め問題は、日々の配給、実に物質的問題だったのです。

  その時、使徒は、弟子全体を集めました。しかし、そのテーマは伝道や宣教のことではありません。食料配給の問題きわめて低い物質上の問題です。 しかし、ここで使徒は、物質的な世俗的問題を「こんな問題は世俗的だ、適当にやりなさい」とは言いません。当時のやもめにとって日々の配給は生命の問題です。今日、失業問題が生命の問題であるのと似ています。使徒たちは、この問題を世俗的と考えませんでした。「神の言葉の問題」としました。

  
「私たちが神の言葉をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人を七人捜し出してほしい。その人たちに、この仕事をまかせ、私たちはもっぱら祈りと御言葉の御用に当たることにしょう」
つまり選挙をして、役割分担をし、新しく執事職を選び出したのです。執事職は、
「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人」
です。霊的、信仰的、そして二番目に知恵です。評判がよいとは、人びとに信頼されている人です。つまり神にも人にも認められる人です。つまりここでもまた「神の言葉が中心でした」。

  このことは私たちに大きなこと教えます。私たちが毎日生きている世界は、実に物質的、経済的、政治的、お金、物の世界です。しかし、使徒たちは、この世俗的なことを信仰をもって解決したのです。なぜなら、「政治の背後には、文化があり、文化の背後には宗教がある」からです。

  今日の物質的問題、それは神の言葉の問題なのです。「政治の一寸先は闇だ」というではありませんか。つまり物質的世界の一寸先は闇なのです。そこでは神が世界の進路を握っておられるのです。この世のことを深く知れば知るほど、この世界を動かしておられるのは、神であることが分かります。「スイスは人間の混乱と神の摂理に支配されている」と言います。「見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る。それはパンの飢饉ではない。水にかわくのでもない。主の言葉を聞くことの飢饉である」。

  では「神の言葉」とは何でしょう。ヨハネ福音書に「初めに言葉あり」とあります。その初めにあった言葉(ロゴス)は、肉体をとってわれらの中に宿りイエス・キリストとなりました。神の言葉とは、イエス・キリストにおける神の救いの現実です。そのロゴスは人間の形をとってわれらの中に宿られた。イエス・キリストは、この世の政治・経済・文化の形、物質の形、お金の世界の形になられたのです。

  その事実を体験した人びとが、証ししたものが、聖書となり、その聖書の神の言葉を、現代に生かして語りかけたのが、説教と聖礼典です。そしてまたそれに基づいて、イエス・キリストを証しする信徒の言葉、生きた言葉があります。その信徒の生きた言葉は、必ずしも、キリストや聖書が語られなくても、それを指し示しているのです。

  Ⅰコリント一三章は、愛の章と言われますが、あそこには、神もキリストと言う言葉も出てきません、しかし、それはキリストの愛を指し示しているのです。この世で信徒の語る言葉は、説教である必要はありません。非宗教的この世の言葉で、キリストを指し示すのです。

  「愛語よく回天の力あるを学すべきなり」。愛ある言葉が、まさにキリストの言葉と類比して私たちの言葉となる時、それは力を発揮します。
「というのは神の言葉は生きていて、力があり、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志しとを見分けることができる」(ヘブル4:12)
多くの人が、言葉によって生かされます。しかし、それは真の言葉、生きた言葉だけです。今日、コンピュータ社会、科学技術の社会、生きた言葉は少なくなりました。だからこそ、キリストを知った人は、生きた言葉を語らねばなりません。それはやさしいことです。生きた言葉は、深い祈りの中から出てきた言葉です。しかも生きた言葉は単純です。生きた言葉を忘れてはいけません。それが今日の社会を生かすのです。
「おりにかなって語る言葉は、銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ」(箴言25:11)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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