2月6日(日)「 霊的教会・法的教会 」説教要旨

           聖句
旧約
 「またすべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。」  
(出エジプト18:21)


  新約
 「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは、神の言葉を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである」  (コロサイ1:24-25)


   教会には霊的面と法的な面とがあります。霊的であること、それこそが第一の教会の使命です。霊的面が第一であることは、いくら強調しても、し過ぎることはありません.教会がペンテコステ、聖霊降臨から生まれたことからも、そのことは分かります。私自身六十年の牧師生活を顧みて、自分が教会を作ったというよりか、すべて神の業で、自分はただそれに仕えていたにすぎないとの感慨をもっています。教会は神の業で、霊的面が第一に大切でです。

   しかし、教会は霊的で、説教と伝道だけしていればよい訳ではありません。その宣教、伝道が成立するためには、地上のからだなる教会がなくてはなりません。まずキリストの福音をこの地上で広めて行くためには、少なくとも最低限の組織が必要です。
「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」
と、パウロは言いました。それはキリストの十字架に不十分な点があると言っているのではありません。十字架は救いのためには完璧ですが、その後、歴史的教会を形成する課題が残っています。
「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマをほどこし、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:19)
とあるように。

   そこには必ず教会の法的面がでてきます。教会というからだが、かしらであるキリストにふさわしく成長するために、教会にも憲法・規則があります。しかし、規則は教会ではありません。教会を形作るために必要なものですが、それは教会の本質ではありません。しかし、人間のこしらえる実際的ルール(法)にも、原則がなくてはなりません。そこで聖書に記されている「神の正義と愛」が貫かれいなくてはなりません。

   聖書によると、最初に教会で会議があったのは、ペンテコステの前です(使徒行伝一章)。十二使徒のうちユダが落ちたので、その補充をきめるため、会議を開きました。その次に、教会が会議を開くのは、使徒行伝六章で、執事ができた時です。ここで初めて選挙が行われます。

  その場合
「御霊と知恵に満ちた、評判のよい人」
つまり信仰・知性・人格が選ぶ信仰的基準でした。学歴とか、資産など問題になりません。私たちは、礼拝は霊的信仰的であるが、会議は人間がするものと思いがちです。しかし、カルヴァンは、礼拝と同じ原理が、会議にも働くと申しました。すなわちキリスト中心、聖霊の働きです。私たちにとって何が利益かでなく、神のみ旨ねは何かが、会議の中心です。この法的面がおろそかで、霊的面のみの教会は弱いです。

  私はよく「教会では、事務的なことも霊的にしなくてはならない」と言います。法的面も霊的に貫かれていなくてはなりません。大分前、深川のホリネス教会から、「教会論」について講演を頼まれたことがあります。その教会は、よく伝道し、霊的で祈りも盛んです。しかし、法的面がおろそかだったのでしょう。その面を求めたのだと思います。

   パウロは、Ⅰコリント12:12以下で、キリストのからだなる教会を、人間の肢体にたとえています。
「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である」
しかも、
「他よりも弱く見える肢体が、かえって必要である」
とも言っています。ただ伝道だけでなく、弱い肢体への配慮もしなければなりません。それは法的教会の使命です。

   無教会主義というのがあります。また今の時代、礼拝や説教はよいが、組織は嫌いだいう人がいます。しかし、
「宣べ伝える者がいなくて、どうして聞くことができるでしょうか」(ローマ10:14)
実に教会は、イエス・キリストがこの世において、たえずご自身を実現してゆく、からだにほかなりません。キリストの救いはこのように具体的です。具体的からだですから、病むこともあるでしょう。そして病む時、多くの人は批評家、評論家に徹します。しかし、イエス・キリストは私たちの罪を観察し、評論するために来られたのでしょうか。それとも、私たちの罪をご自分の罪として負うために来られたのでしょうか。

  私たちは教会のお客さんではありません。当事者です。病む時、法的教会が問題になります。そのことを正しく、キリストにふさわしく処理しなくてはなりません。その時、神の栄光が輝くのです。人間中心でなく、神中心に解決しなくてはなりません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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