1月30日(日)「 わ れ ら の 罪 」説教要旨

           聖句
旧約
 「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まことの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪をゆるす者、しかし、罰すべきもを決してゆるさず・・・」  
(出エジプト34:6-9)


  新約
 「わららに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」  (ルカ11:4)


   罪には法律上の罪と、道徳的罪と宗教的罪とがあります。法律は人間の生きる最低のことを決めているにすぎません。日常生活で友人にウソをつくことは、道徳的には悪いことでも、法律では特別な場合以外罰せられません。
  しかし、宗教的罪になると、もっと深いものです。神が中心です。神につくられた私が、神に従って生きないで、神でない何ものかに従って生きること、「自分の欲望に」、また「他の人間に」、「自分勝手な考えに」従って生きることが信仰的罪です。人間的に見れば立派でも、神に従っていないところに罪があります。立派な病院を建てても、それが自己宣伝なら、道徳的には立派でも、信仰的には、神にそむく罪です。

  しかし、今日の祈りは、
「われらに罪を犯す者を」
ですから自分が被害者になる場合です。具体的に、今、自分に罪を犯した者をゆるすという問題です。私の友人で、この祈りの前半は小さい声で祈ると言う人がいました。それこそ利己主義ではないでしょうか。自分の罪のゆるしを求めながら、隣人の罪はゆるせないのです。自分については、神の恵みと愛を求めながら、人には正義の剣をふるうのです。

  私たちはこのように、自分の罪のゆるしにさえ、自己中心で、エゴイストではないでしょうか。そこでイエスは、自分の罪のゆるしに際して、自分が他人に何をしているか思い出させ、
「わららに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく」
と祈るよう命じられるのです。

  このことをはっきりと示したたとえ話が、マタイ18:21-35にあります。王様から、一万タラントもの借財をゆるしてもらった人が帰り道、わずか百デナリを貸していた友人の負債をゆるせず、彼を訴えて牢にいれたのです。この矛盾、他者には、厳しく、正義の士で、自分のことでは、信仰義認で、恵みのやさいし、放蕩息子の父親をもとめます。

  ここには私たちに分からない、隠れた罪があります。神はその隠れた罪をあらわにするお方です。哲学的だから分かりにくいのではありません。それが自分自身の罪だから、分りにくいのです。人は鏡なしに自分の顔を見ることはできません。自分で自分の顔についた墨を認められません。それは人間が一万タラント負った罪にほかなりません(宗教的罪です)。
  主人は返えせない負債をゆるしました。それは十字架のキリストです。しかし、返せない一万タラントをゆるしてもらったのに、帰りに友人の百デナリをゆるせない。

  皆さん、アジアの戦争被害者たちを考えてみてください。「被害者は忘れない」ということがあります。自分の犯した罪は、隠れて見えません。しかし、隠れているのは、ただ本人にとってだけです。被害者から見れば、決して忘れられません。しかし、私たちに隠れた罪が明かになることがあります。神からキリストから、つまり聖書から教えられた時です。それが今、問われている、信仰の問題です。

  あなたは「王様から(神さまから)」、一万タラントもの負債を負っているのです。それを忘れているのは、あなたの自己中心の姿なのです。そして、今日の祈り、
「わららに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」
は、自分が被害者になって初めて、自分の罪深さに気づくのです。今、私たちはイエス・キリストの深い無条件の愛をどこかで見失ったのではないでしょうか。その時、私たちはいつのまにか、自分の魂の価値を見失っているのです。そして自分の魂の価値が見えない人は、隣人の魂の価値も見失った人です。それらを見失って、ただゆるしなく、互いにさばきあっているのではないでしょうか。

  しかし、神は、このように私たちがつれなさ無情のゆえに、互いに失ったものを回復しようとして、その失われた魂の重荷を十字架の上で負われたのです。ここにおいて十字架は、私たちに自分の罪を自覚させるものであると共に、真の愛情の回復であり、また魂の復権なのです。「ゆるしうる者をゆるす、それならどこに神の力がいるのか。ゆるしえざる者をゆるす。そこから先は神のためだと知らぬか」(八木重吉)。

  
「愛する者たちよ、神がこのように私たちを愛してくださったのだから、私たちも互いに愛しあうべきである。神を見た者は、まだ一人もいない。もし私たちが互いに愛しあうなら、神は私たちのうちにいまし、神の愛が、私たちのうちに全うされるのである」
(Ⅰヨハネ4:11-12)


「われらに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」
と祈れない人は、愛を失っているのです。そして罪とは、愛を失った姿にほかなりません。その時、私たちは隣人の魂の尊さを忘れているのです。このように祈ることができて、初めて私たちは、隣人の魂の尊さを見いだし、また自分の魂の尊さも再発見するのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2010 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.