1月23日(日)「 われらの日用の糧 」説教要旨

           聖句
旧約
 「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけで生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」  (申命記8:3)


  新約
 「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」  (マタイ6:11)


    後半の三つの祈りの最初は、「日用の糧」です。いかに日々の食物ののことを神が配慮してくださっているかが分かります。「糧」とは、原語で「パン」ですが、食物、また生活必要品全部を指します。この祈りの後の方でイエスは
「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」(6:22)
と、言っています。イエスは精神的なものが上位だとは言いません。私たち信仰者も、物質のことお金のことで悩み、争います。

   しかし、申命記の御言葉では、イスラエルが荒野で飢えた時、神は天からマナをふらせ飢えさせなかったとあります。この地上の「日用の糧」も、天から与えられ天に関係あるのです。地上の必需品だから地上の手段ではありません。

   それである神学者は、この「日用の糧」には、精神的な糧、信仰的なものも含むと申します。事実、その申命記には、「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけで生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。
   イエスも荒野で悪魔の誘惑を受けたとき、「その石をパンにしてごらん」と言われた、その時、
「人の生きるのはパンのみによるにあらず、神の口より出るすべての言葉による」
と、この申命記の言葉で悪魔を撃退しました。

   私は断食寮で、一週間断食したことがあります。そこでは最高七十日断食した人がいました。水さえ飲んでいれば、人は七十日も何も食べずに生きて行けるのだと確信をもちました。預言者アモスは、
「これは食の乏しきにあらず、水に渇けるにあらず、ただ神の言葉を求めることの飢饉である」(8:11)
と言いました。

   しかし、私たちは、神の言葉の前に、パンや水の不足で悩みます。荒野を四十年さまよい、イスラエルを悩ましたのは、空腹、飢え、渇きでした。ただそれを「わたしに求めよ」と神は言われます。それでイエス・キリストは、主の祈りの人間に関する祈りの一番初めに、「日用の糧」と言われたのです。この極めて地上的なパンのこと食のことを、お金のことを、すべてのものの造り主に、その豊かさに求めなさいと言われるのです。 パウロも、
「わたしの神は、栄光のうちにあるご自身の富によって、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たしてくださる」(ピリピ4:19)
と言っています。

   このことを心から信じて祈りなさい。パンも台所のことも、ガマグチの中までも、祈りの対象として神に求めなさいと、
「日用の糧を与えてください」
との祈りは、語っているのです。さもないと、物質やお金をただ地上のこととしてだけ求める人は、物質や金と一緒に、「思い煩いと争い」という重荷をいっしょに背負い込むことになるでしょう。申命記の初めの方に、
「先にたって行かれるあなたがたの神、主はエジプトにおいて、あなたがたの目の前で、すべてのことを行われたように、あなたがたのために戦われるでしょう。あなたがたは、また荒野で、あなたの神、主が、人がその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見ました。あなたがたがこのところに来るまで、その道すがら、いつもそうでした」(申命記1:30)
とあります。

   またここで「われらの日用の糧」と、複数になっています。自分の糧だけでなく、隣人のパンも含まれて祈るのです。世界には飢えた民が、何億といます。
「天にいますわれらの父よ」
と呼びかける人は、隣人のパンについての配慮もできる人です。ここではさらに「今日も」お与えくださいと「今日」となっています。そこには、「明日のことを思い煩うな」と言われた、主イエスの言葉が背景にあります。
「明日のことは明日自らが思い煩うであろう」
と。明日明後日と欲張らずに、荒野のマナは、一日分でした、翌日分まで欲張って取ると、それは腐ってしまいました。

   このように祈れる人は、「今日」という日の価値を知っている人です。ある神学者は、その本の中で、「15分後のことを考えて生きなさい」と言いました。「神が私たちを支えたもうことを認めることによって、私たちはその上、次の十五分間を生きることをゆるされ、この十五分間が何を意味するか悟るなら、どのようにして、神に自分の意志を献げ、信じるべきか分かります」。エレミヤは、
「人の道は、自身によるのでなく、歩く人が、その歩みを自分で決めることができない」(10:23)
と言いました。賛美歌288にあるように、「行く末遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて、一足また一足、道をば示したまえ」と祈るのです。それが
「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ」
の、「今日」の意味なのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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