1月2日(日)「 神の名 」説教要旨

           聖句
旧約
 「主よ、あなたに並びうる者はありません。あなたは大いなる者であり、あなたの名も、その力のために大いなるものであります」  (エレミヤ10:6)


  新約
 「そこで彼らに言われた、『祈る時には、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように、御国が来ますように』」  (ルカ11:2)


  
「願わくは、御名をあがめさせたまえ」
これが主の祈りの第一の祈りです。私たちは、イエス・キリストから教えられなければ、自分のことを先に祈って、決して神さまのことから祈りはじめないでしょう。しかし、考えてみると、すべてのよいものは神から来るとすれば、与え主を忘れて、物ばかり求めるのは真の祈りではありません。しかし、「神の名」とは何でしょう。

  ベンヤミンというユダヤ人哲学者は、「真理とは、事物、人に名を与えることだ」と言いました。それは神が、アダムに動物を連れてきてそれに名を与えさせることから来ています(創世記2:19)。

  この真理は、新約聖書では、イエスが九十九匹を残して、一匹の迷う羊をどこまでも追い求める姿に現れています。すべての人には名があります。「名」は聖書で大切な意味をもっています。モーセは召された時、 神に
「あなたの名は何ですか」
と聞きました。その名は
「ヤハウエ(わたしはならんとする者になる)」
です。

  仏教には、この名がありません。唯一浄土系の仏教が、「南無阿弥陀仏」と「名」をもっていますが、その名は、「体」がありません。阿弥陀仏とは理想仏です。実在していません。それに対してイエス・キリストには実態があります。紀元元年から紀元三十年まで、現実にこの地上に、パレスチナの地に生きていたのです。私たちは祈りの最後に
「イエス・キリストの名によって」
と祈り、ペテロは、
「イエス・キリストの名によって歩け」
と足の悪い人をいやしました。この御名は、私たち一人一人が、「名をもって呼ばれている」根拠です。  

  
「わたしは主、あなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はいない。一人もいない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」(イザヤ45:4-59)


  日本社会は名無しです。仏教は今言った通り名無しです。神道も、「なにごとのおわしますかは知らねども、ありがたなさに涙こぼるる」(西行法師)と言い、「イワシの頭も信心から」と言う言葉もあります。

  日本人の信仰は、対象は何でもかまわない、自分の心の問題です。つまり宗教も「名無し」です。日本人は、挨拶の時、名を呼びません。科学技術の社会も「名無し」です。コンピューターのいたずらも「名無し」でできます。資本主義社会も「名無し」です。しかし、教会は、学歴も職業も能力も性格も家柄も性別も問いません。ただ名前だけを問います。

  では「神の名があがめられる(聖とされる)」とは何でしょう。「聖」とは、「神が特別にとっておく」意味です。あなたの名を呼ぶのは、神があなたの名を特別にとっておく。あなたは格別だ、外にない。「自分などはこの世で用のない人だ」と思うかも知れません。しかし、神はあなたを特別にとっておく、それが名を呼ぶことの意味であります。

  したがって、
  • 1 私たちが神の名を呼ぶ、
  •  
  • 2 神が私たちの名を呼んでくださる、
  •  
  • 3 私たちが互いに名を呼びあう。
この三つは、連携しています。神の名が尊ばれる所、私たち互いの名が尊ばれます。人格尊重とか人権とか、あるいは愛とか友情とかは根底に、名を尊ぶことがあるのではないでしょうか。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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