11月7日(日)「 昔いまし、今いまし、後きたるキリスト  」説教要旨

           聖句
旧約 「しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して言います。『あなたはわたしの神である』と。わたしの時はあなたの御手にあります」
  (詩編31:14-15)

  新約 「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」
  (ヨハネ黙示録1:8)


  
「昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」(4:8)
「昔(過去)」→「今(現在)」→そして「後(将来)」です。これは自然の時間の順序です。それは私たちの生涯、またこの世界の歴史の姿でもあります。
  仏教では、この過去・現在・未来へと動く時間の姿を「諸行無常」と言っています。いろは歌で言えば、「いろはにほへど、散りぬるを、わが世、たれそ常ならむ」です。その現実の姿を、そのまま受け入れる、それが悟りです。しかし、そこには将来がありません。聖書では、「昔いまし、今いまし、後きたりたもう」と、将来の時間にだけ違った表現をします。もし同じにすれば、「昔いまし、今いまし、後います」となるべきです。しかし、将来は、「後きたりたもう者」と「来る」と表現しています。これが大切です。

  確かに「神の国にはいる」という表現もあります。
「富んでいる者が神の国に入るよりは」(マタイ19:24)
「取税人や遊女は・・・先に神の国に入る」(マタイ21:43)
その他。しかし、イエスの宣教の最初の言葉は、
「時は満ちた、神の国は近づいた」(マルコ1:15)
です。また主の祈りには、「願わくは、御国を来らせたまえ」とあります。私たちを主体とすれば、神の国に入るのですが、神を中心にすれば、「神の国は近づき、神の国は来る」のです。私たちは自分の召される日のことを考えて、「神の国が来る」とは、この私のところに来ることを忘れないようにしましょう。私たちの将来は、向こう側から開けてくるのです。

  
「しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して言います。『あなたはわたしの神である』と。わたしの時はあなたの御手にあります」(詩編31:14-15)
ここでは、一般に時間というものが、神の御手にあると言っているのではありません。「わたしの時があなたの御手にある」のです。つまり一人一人自分の時間が、病気や失業や戦争や失敗のある、この私の時が、神の御手にあるのです。この私だけが持っている時が神の御手にあるのです。

  「あなたの御手に」、神を私たちは「あなた」と呼ぶことができるのです。しかも病気や失業や戦争や失敗のある、この私の時の中で、それを神の時、「あなたの時」と呼べるのです。それはイエス・キリストの御手でもあります。あの病人に手をおかれた、そのお方の暖かい御手にあるのです。それが「昔いまし、今いまし、後きたりたもうお方」にほかなりません。

  年を取ると、過去は記憶の底にあります。楽しかった過去について、「あの時代はよかった」というなつかしさがあります。しかし、それだけなら、過去の人間になってしまいます。大切なのは「今」です。それゆえ、1:8では「今いまし、昔いまし、後きたりたもう」と、現在を先にします。

  わたしの時は、第一に現在です。しかし、それが将来につながっています。だから「わたしの時は、あなたの御手にあります」。しかし、その方は、やがて来るお方です。私が入る神の国なら、入る入り方に上手下手があるかも知れません。信仰の深い浅いの違いがあるかも知れません。しかし、そのお方「来られる」なら、区別や差別ありません。その時、詩編のすぐ次ぎにあるように、
「主はほむべきかな、包囲された町のように、わたしが囲まれた時、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された」(詩編31:21)
「すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ」(詩編31:24)
となります。だから「わたしに将来はない」と言ってはなりません。それは向こう側の信仰です。
「今いまし、昔いまし、後来りたもうお方」
「全能者にして主なる神が仰せになる。『わたしはアルファであり、オメガである」
その方こそ「最初で最後なのです」から。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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