9月26日(日)「 道徳は分け、愛は結ぶ 」説教要旨

           聖句
旧約 「愛を追い求める人は人の過ちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる」
  (箴言17:9)

  新約 「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』。イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』」
  (マルコ2:16-17)


    今日、道徳が地におちています、そして多くの人びとが、自己中心、利己主義に走っています。人を蹴飛ばしても、自分に有利なようにというのが、世の中の風潮です。愛が失われ、人情は紙よりも薄くなっています。道徳教育をしなくてはいけないと、叫ぶ人もいますが、果たしてそうでしょうか。

   私はなるべく自然に、自ら自覚して、他者のことを考えるようになるのがよいと思います。教会のことはみ言葉から、聖霊をとおして来ることが、よいと思うのです。人からやかましく言われて、やっとしぶしぶすると言うのでは、それは形だけになりかねません。親があまりやかましく言うと、親の見ていないところで、悪いことをするようになるのです。形式だけ分かっていても、心からしない行為は、形式主義、律法主義です。

    道徳や律法は、人を互いに引き離す効果があります。イエスは、自分の目に大きな梁があるのに、兄弟の目にある塵を取り除くことはできない、まず自分の目から梁を取り除け、そうすれば、はっきりと見えて、人の目から塵をとりのぞくことができると言われました(マタイ7:3)。
  安息日に、麦の穂をつむ弟子たちを非難するパリサイ人に対して言われました。
「安息日は人のためにあるので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)
道徳は人を分け、引き離し、罪人をこしらえるのです。
  律法宗教は、イザヤの言う
「ここにも規則、あそこにも規則、ここにも命令、あそこにも命令」(イザヤ28:10)
です。親や教師の教育も注意しなくてはなりません。「罪人は罪人の教育することはできない。しかし、イエス・キリストの恵みによって救われた者は、その受けた恵みを指し示すことはできる」(バルト)。

   「親」とは「木そばで立って見ている」者です。道徳は人を分け、離し、そこに距離ができます。北風はいよいよ、マントを固くしめさせ、暖かい太陽が、初めてマントを脱がせるのです。「道徳が分離し、距離を作るのに反して、愛は互いを結びます」。 
   今日のマルコ福音書で律法主義者は、イエスが罪人と食事をしていると非難します。しかし、イエスは、医者がいるのは、病人だと言いました。私たちの社会は、病める社会です、必要なのは、道徳、律法ではなく、魂の医者・愛の医者です。イエスの示したこの恵みの自由に対して、律法学者たちは、自分たちの自家製のわくで計っています。その枠組みにはいらないものは、みな批判して捨て去るのです。
   私たちも自家製のわくをもって、人を計っていないでしょうか。あれは「あかだ」あいつは「保守だ」と言います。その際、人をパターン化してみているのです。イエスは取税人の中に、「人間」を見、罪人の中に「神の子」を見ておられたのです。信仰の敵は、このパターン化した思考です。神の子がこの罪と泥のところに来られ、すべてを受け入れてくださった時、罪人も神の栄光のために用いられるのです。  

   律法学者は自分たちの枠によって、この神の恵みの自由から離れています。それはあの放蕩息子のたとえの、兄息子です。自分の正しさのゆえに、放蕩息子を受け入れることができず、すねて家に入ろうとしないのです。それゆえ自分を義人と思っている人ほど、神から遠く離れている罪人はいないのです。
「丈夫な人たちには、医者はいりません。ただ病気の人たちだけがいるのです。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためです」
    

   この真理が分からない人は、自分の義によって、神の義から遠く離れているのです。このイエスの言葉は、実に逆説的ではないでしょうか。「義人ほど罪人はいないのです」。マルチン・ルターは、「キリスト者ほど大きな罪人はいない」と申しました、考えるべき逆説です。私たちの信仰が、一つのパターンになっていないと言える人がいるでしょうか。   
   形式ではなく、キリストが生きています霊的な礼拝が本当の礼拝です。私たちは真理の問題を形式の問題にすりかえることをします。バルトは、こう書いていました。「神が人となり、イエス・キリストとなってくださった以上、『人』がすべての基準である」と。人が生きるか死か、それが問題です、キリスト教倫理とは、それだと言ったのです。神は本になったのでも、畠になったのでも、お金になったのでもありません。ただ「人」となられたのです。それなら「人が万物の規範です」。    

   それはまた、「愛がすべての規範だ」とも言えるでしょう。皆さんは、人それぞれ、善悪をきめる基準をもっているはずです。それは形式的なものでしょうか。それとも愛が、あるいは人が規範でしょうか。それ以外の規範は、人を分け隔てます。道徳は分け、愛は結びます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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