9月12日(日)「 つまづきは来らざるをえず 」説教要旨

           聖句
旧約 「主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまづきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる」
  (イザヤ8:14)

  新約 「しかし、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシア人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである」
  (Ⅰコリント1:23-25)


   「つまづき」とは、石などに足を取られて倒れることです。しかし、精神的にも、「つまづく」という場合、大概失敗することを言います。しかし、聖書では、
「見よ、わたしはシオンに、つまづきの石、さまたげの岩を置く、それにより頼む者は失望に終わることがない」(ローマ9:33)
とあり、今日のイザヤ書にも、さまたげの石は、聖所でもあるのです。そしてその両方の相反する働きをするつまづきの石は、Ⅰコリント書によると、具体的にキリストの十字架なのです。
「十字架はユダヤ人にはつまづき、ギリシア人には愚かですが、召された者自身には、神の力、神の知恵たるキリスト」
なのです。つまり、救いの岩がつまづきなで、つまづきと見えるものが、実は救いの岩なのです。  

   キリスト教とは一言で言って、この十字架が中心です。教会の正面には、どこの教会でも十字架があります。十字架というのは、ローマ社会の極刑で、逃亡奴隷や反乱人に対して行われるもので、実にむごたらしいものです。その犯罪人の受けるむごたらしい刑罰が、救いの岩だとは、確かに「つまづき」ではないでしょうか。ユダヤ人にとって、救い主とは世の終わりに栄光のうちに現れて、苦しむユダヤ人を救ってくれるものでした。ギリシア人の知恵からすれば、十字架が救いなどとは、とんでもなく不合理で、愚かなものにすぎません。おそらく日本人にも、十字架はつまづきではないでしょうか。なぜなら、大概の日本人にとって、宗教とは御利益をもたらすものだからです。十字架に何の御利益があるのでしょうか。  

   小樽で少女時代を過ごした婦人は、女学生時代、十字架が何のことか分からず、友達が受けるので無意識で一緒に洗礼を受けました。しかし、長い年月を経て、人生の苦労をなめて、初めて十字架の深い意味を知りました。それで再洗礼ということはできないでしょうかと言いました。かって小樽で、少女ながら、近藤牧師が、「十字架、十字架」と講檀で叫んでいたのを思い出すと言うのです。まさにその婦人にとって十字架のつまづきは、救いの岩となったのです。

   中国の戦犯で、上官の濡れ衣を着せられ死刑の判決を受けた人がいます。その人にとって聖書は初めどうでもよいものでした。しかし、聖書を読むうちイエス・キリストの十字架のところにきて、初めて「ここに私と同じ苦しみを受けた人がいる」と叫びました。彼は獄中で洗礼を受けます。

    モルトマンも捕虜収容所でベルギーの神父さんにもらった聖書、マタイ福音書を読んで行くと、十字架のキリストが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったの出すか」の叫びにふれ、ここに神がいる。私たちの苦しみを連帯的に負ってくださる神がいると信じました。イエスは十字架につけらた犯罪人に「今日あなたは私といっしょにパラダイスにいる」と言いました。

   十字架の秘密は、「苦悩」と「愛」です。神の子自身が苦悩を負いつつ、罪人を愛するその神の真実がここにきわまっているのが十字架です。それは信じなければ「つまづき」にすぎません。しかし、これにより頼む者は失望に終わることはない。十字架の縦の棒は苦悩でしょうが、その横の棒は愛にほかなりません。それはつまづきの岩ですが、同時にまた聖所でもあります。まさにその二つがクロスしたところに十字架の救いがあるのです。  

   私自身疎開先で「黒谷の上人伝」を読んでいる時、救いが来ました。十字架のイエスが、はっきりと招いておられる。「すべて労する者、重荷を負う者は、我に来れ、われ汝を休ません。わが荷は軽く、わがくびきはやすいからである」と。  

   十字架はつまづきだ、それはだれにでも来ます。しかし、そこから救いの道を見いだすなら、それは信頼すべき岩となります。それは私たちの中からすべてのものを奪いますから、自分に固執する者には、「つまづきの石」ですが、この石は、正しい位置におかれる時、信仰というあ建物の礎石になります。「これはへりくだりへと私たちを教育するためであることを、指示しているのです。これは恐怖と絶望させるためにあるのではなく、むしろ、恵みをすすめ、僭越を破砕するためにほかなりません」。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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