8月8日(日)「 終 末 の 救 い 」説教要旨

           聖句
旧約 「見よ、わたしは新しい天と新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起こすことはない」
  (イザヤ65:17)

  新約 「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされた方を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子を聞く時が来る。今すでに来ている。そして聞く人は生きるであろう」
  (ヨハネ5:24-25)


   個々人に死があるように、この世界にも死が来ます。それが終末、「神の国」、「キリスト再臨」「新しい天と新しい地」です。この終末については、間違った考えもあります。 

   1 地上的(この世的)終末論  

   この世界は、資源が枯渇し、太陽がエネルギーを失うなど、この世的終末論には、何の希望もありません。ただ恐怖感をあほるだけです。また宗教的地上的終末論は、この地球上のある時点で、世の終わりがくる。それはキリストの再臨と最後の審判と結びつきますが、何年何月何日に世界が終わるというものです。しかし、
「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」(使徒行伝1:7)
「天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」(マルコ13:31-32)
とあるように、終末を地上に引き下げることは、父の権威を犯す傲慢の行為です。 

   2 天上的(超越的)終末論  

   これは1の正反対です。神の国は、「神の」国なのだから、神のみこころによってなる、それは来るべき永遠の世界で、そこには地上的なものはないというのです。こういうキリスト者がいます。人間は罪人で、平和運動などで地上に戦争はなくならない、それは終末の日、神によって実現されるのだと。するとキリスト者は、この地上で何もしないでいいのでしょうか。この人の神の国は、あまりにも現実とかけ離れています。  
  イエスのたとえでは、永遠の神の国に目覚めた人間の現在の行為を述べています。タラントのたとえで、
「天国は、ある人が旅にでる時に、その僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」
神さまは、一人一人のその力に応じてある人には5タラント、ある人には2タラントを預け、その人びとが、その賜物に応じて働かせた時、お喜びになります。1タラントを地面に隠しておいた者は叱られます。天上的(超越的)終末論は、永遠性にだけ目が向けられ、地面にタラントを隠した人のように現在の信仰・行為がおろそかになります。 

   3 現在的(実存的)終末論  

   そこで今とは反対に、自分個人の現在にのみ目を向けた、現在的(実存的)終末論があります。確かに
「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている、そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネ5:24-25)
これは現在的終末論です。しかし、すぐあとにこうあります。
「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、さばきをうけるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネ5:29)
この現在的終末論には、将来的終末論が欠けています。実存的、個人主義的で、この世界の終わりがありません。宇宙的広がりがありません。   

   4 聖書的終末論  

   聖書に描かれた終末論は、すべてを含んでいます。それは第一に、「現在的」です、あなたの今の実存にかかわっています。
「私たちはまた、神と共に働くものとして、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。『わたしは恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、今は、救いの日である」(Ⅱコリント6:1-2)
恵みの日、終末の日は、現在、あなたが恵みを受け、神と共に働くところにあります。しかし、同じく
「すでにすえられている土台以外のものをすえることは誰にもできない。その土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金・銀・宝石・木・草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりと分かってくる。すなわち、かの日は、火の中に現れて、それを明かにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかためすであろう」(Ⅰコリント3:11-15)
と、神の来たらす新しい世界があり、あなたは神と共に働かなくてはなりません。その永遠なる世界に目覚めた終末論は、現在なすべきことに全力を注ぎ、将来と現在が緊張状態にあります。次の二人のキリスト教哲学者の言葉を味わってください。  

   「人はただ一度しか生きない。死が到来した時、君の人生が十分によきものであったならば、すなわち正しく永遠と結ばれるよきものであったならば、神は永遠にほむべきかな。・・・君は今、この一度だけのものを生き、時間の中での、その拡がりは刻々と消えて行く。時と共に消えて行くにもかかわらず、愛なる神は天にいまし、大きな愛をもって君を愛したもうのである。しかり、神は君を愛したもう。それゆえ、神の喜びたもうことは、神が永遠のために、君に対して欲したもうことを君が欲することであり、君が苦しもうと決意することである」(キルケゴール)。     

  永遠に目覚めた者の個人的責任を言っています。 「救いとは人間が神ともう一度真の交わりを結ぶことによって、他の人間や世界と、失われた関係を取り戻すことです。個人だけ、選ばれた者だけが救われるということはありません。全人類と全世界が救われ、その本質が根本的に改められ、生きとし生けるものすべてが生まれ変わらなければ、十字架に表される、この世の苦しみと悲劇は、絶対に終わりには達しないでしょう。私の救いは、他の人の救いとかかわりあるばかりか、一枚の草の葉とさえもかかわりあっているのです。こうして宇宙のすべてのものが全面的に変容し、神の国のものとならなければ、私自身にも救いはないでしょう。それは、この神の無からの創造に応答する、私の創造活動いかんにかかていると言っても過言ではないでしょう」(ベルジャーエフ)。  
  これは個人を越えた全世界の救いを語っており、そこに個々人の応答の責任も述べられています。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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