8月1日(日)「 真 の 慰 め 」説教要旨

           聖句
旧約 「しかし、わたしの足がすべると思った時、主よ、あなたのいつくしみは、わたしを支えられました。わたしのうちに思い煩いの満ちる時、あなたの慰めはわが魂をよろこばせます」
  (詩編94:18-19)

  新約 「ほむべきかな、わたしの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる艱難の中にいる時でも、私たちを慰めてくださり、また私たち自身も、神に慰めていただく、その慰めをもって、あらゆる艱難の中にある人びとを慰めることができるようにして下さるのである。
  それは、キリストの苦難が私たちに満ちあふれているように、私たちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。
  私たちが艱難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。」
  (Ⅱコリント1:4-6)


   「真の慰め」について、ハイデルベルク信仰問答では最初に「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と言います。その回答は明快です。「わたしが生きている時も、死ぬ時も、身も魂も、わたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることであります」。ドイツで堅信礼の時、このことを告白し、五十年記念の時、もう一度告白します。それは大変感銘深い時です。戦争、死別、病気、離別、失敗、倒産、失職、人生の苦難を経て、その中で「ただ一つの慰め」は何か。その答えが、イエス・キリストです。  

   パウロは、私たちがよくするように、艱難の理由を探索し、その必然性を問うたりしません。「ほむべきかな」と神賛美から始めます。それは
「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」(詩編46:1)
だからです。一番近い助け、それが神だからです。ある人は、「教会はつぶやいたり、嘆いたり、争ったりします。しかし、その中で、神は慰めを与えます」と書いています。   

   次に「慰めに満ちた神」とは、原語で「あらゆる慰めの神」です、それは「あらゆる艱難」に対応しています。それはすべての艱難、すべての慰めと言ってもよいでしょう。私たちは苦難が大きいと自分の苦しみを特殊化します。「あなたにはこの苦しみは分かってもらえない」と。しかし、その時、「苦難の傲慢」に陥っていないでしょうか。   

   パウロはからだが弱く慢性病でした。さらにこう書いています、「私がアジアであった艱難を知らずにいてもらいたくない。私たちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みを失い、心のうちで死を覚悟した」と。パウロほどの人が「苦しみのあまり死のうとさえ思った」とは。   
   ふつう人は、苦しみの中で、神からいじめられていると思ったり、ひょっとして神はいないのではないかと思います。しかし「あらゆる慰めの神」は、いつでもどこでもいます。私たちの疑いの中にさえいらっしゃいます。だからこそ、「あらゆる慰めの神」なのです。

    私たちの中には、人によって自分の苦難を語らない人もいます。しかし、パウロは自分を語る人でした。それはよくあるように苦しいと叫んで、人の同情を引くためではなく、この「あらゆる慰めの神」を知らせるためです。苦難のどんなに否定の力よりも、この「あらゆる慰めの神」は、はるかに強い力です。ですから苦しむ者は、つねに愛なる神の御手の中にあるのです。  

   しかもこの確信は、ほかの苦しむ人に分かつことができます。「また私たち自身も、神に慰めていただく、その慰めをもって、あらゆる艱難の中にある人びとを慰めることができるようにして下さるのです」。キリストご自身が、私たちの苦しみを分かってくださったゆえに、私たちは他者の苦しみに参与することができます。しかも、その苦難は、受け耐えるだけでなく、さらに満ちあふれ、越えるのです。   

   モルトマンは、第二次大戦中、高校のクラスごと高射砲隊に招集され、そこでハンブルク大空襲に会いました、まわりの級友はばたばたと倒れ、その中で九死に一生を得、その時の叫び、疑問は、「神よ、あなたはどこにいるか」でした。その答えを彼は、後にベルギーの捕虜収容所で、神父さんからもらった一冊の聖書に見いだしました。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)
この十字架の苦難の神に救いを見いだし、洗礼を受け、帰国後神学を学びました。それは宿命論ではありません。「やがて幸せになりますよ」という気休めでもありません。この苦難を貫いて一条の光が射したのです。彼は『希望の神学』の次に『十字架の神学』を書きました。まさに『十字架の神学』が『希望の神学』なのです。  

   これまで、神にある慰めと苦難の関係について語ってきたパウロは、ここでさらに兄弟たち姉妹たちとの関係に転じます。この苦しみを通して、ただ神と結ばれているだけではなく、兄弟姉妹と結ばれているのです。 極度の苦難を通して自ら慰めを受けた者のみが、最もよく人を慰めることができます。 それゆえ望みが出てきます。 こうして極度の悩みの後に、変化が来ます。極度の否は、神のしかりに変えられます。艱難は神の慰めを生み、神の慰めは、他者を励まし、そこから連帯と喜びと勝利が生まれてくるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2010 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.