7月25日(日)「 無駄なことをするように 」説教要旨

           聖句
旧約 「彼らの勤労は無駄でなく、その生むところの子らは災いにかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはないと主は言われる」
  (イザヤ65:23-25)

  新約 「しかし、食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言葉と祈りとによって、きよめられるからである」
  (Ⅰテモテ4:3-5)


   世の中には、無駄なようで、決して無駄どころか、大切なものがいくらもあります。「駄目」という言葉は、子供でも使う言葉ですが、実は囲碁から来た言葉です。「駄目」とは、白の目にもならず、相手の黒の目にもならない、どちらの領地でもない中間地点のことを指します。しかし、囲碁全体から見ると、この「駄目」がある役割を果たしているのです。石炭を船に積み込む仕事で、石炭をこぼすので、もったいないからと、もっと静に運んだら、こぼれる石炭は少なくなったが、能率が悪くて、またもとのやり方にもどしたそうです。「無用の用」というものがあります。

   今日の聖書は、
「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」
です。神さまが、存在を許している限りこの世に何一つ「無駄なもの」、「駄目なものは」ありません。しかし、「神の造られたものは、みなよいもの」でしょうか。戦争、テロ、殺人、自然災害、しかし、これは、決して神の造られたものではありません。自然災害なども、地球温暖化の結果だと言います。これは神の警告だと思います。けれども、ここでは、世界のありとあらゆるもの、みな良いとは言っていません。「神の造られたものは」です。しかも
「感謝して受け取るなら、何一つ捨てるべきものはありません。なぜなら、それは神の言葉と祈りとによってきよめられるからです」
とあります。「御言葉と祈り」、神の側からの言葉による助け、人間の切なる祈り、この二つによって「きよめられる」とあるからには、もともと悪いものもある、しかし、御言葉と祈りによって、よいものに作りかえられるのです。  

   無駄なものはないのだと、居眠りし遊んでいたのでは、無駄は無駄のままです。二つの参加が必要です、「神の言葉」と「祈り」、もう一つ「感謝」です。
「感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」
です。感謝とは、これはすばらしいという心です。「神の言葉」が、無駄なものを感謝の対象と変えてくださるのです。  

   パウロは、病をサタンの使いとしていました。しかし、祈っていたら、それは「弱い所に働く神の恵み」であると知らされました(Ⅱコリント12:9)。病気など人生において無駄なことではないか。そうではありません。病気は人生の学校であります。パウロの祈りによって、病気までもが神の恵みに変わったのです。世界にそれ自身でよいものも悪いものもありません。ただそれは「神の言葉と祈りによってきよめられるのです」。     

   それによって、病気にも意味が出てきました。「感謝する」とは、この神の恵みの光に照らされて、すべてのものを見、すべてのものを照らす神の光を輝かせるのです。その時、世界には何一つ捨てるべきものはありません。何一つ無駄なもの、駄目なものはありません。神が拾いたもうのに、どうして人間が捨ててよいでしょうか。人間も捨てる者はありません。       

   仙台育児院で、不良少女が一番よい保母さんでした。大人からどう扱われるのが一番嫌か勘所を心得ているからです。神がその人を拾いたもうなら、誰もこれを捨てることはできません。神の言葉は、拾ってくださる神の恵みを教え、祈りは、そのような神に目を向けさせる力となるのです。神の恵みを離れてすべてを持つなら、よいものさえ悪いものになるでしょう。  

   病気のほかに罪があります。私たちは罪を嫌います。人の争いは罪から始まります。罪とは、人間のあくなき自己中心の心です。教会で人の罪を語るのは、「あなたの罪はゆるされた」という十字架の言葉と共に語るのです。イエス・キリストは、罪という無駄なもの、駄目なものを十字架の上で負われたのです。それは罪深い者が、「信仰によって義とされる」と言ってもよいでしょう。それは「どんな悪いことをしてもよい」という意味ではなく、「あなたは罪や欠陥があるけれども、イエス・キリストのゆえに、神さまのお役に立つ」という意味です。その時、私たちは生かされているのです。「兄弟よ、罪の前にたじろいてはなりません。罪のままの人間を愛しなされ。それこそ神の愛に似たものです」(ドストエフスキー)。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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