7月18日(日)「 多元的世界を生きる 」説教要旨

           聖句
旧約 「わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手は、その所でわたしを導き、あなたの右の手はわたしを支えられます。やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれと、わたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます」
  (詩編139:7-12)

  新約 「律法をもたない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心に記されていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。そしてこれらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人びとの隠れた事がらをさばかれるその日に、明かにされるであろう」
  (ローマ2:14-16)


   アルジェリアで工場の建設にあった人の話を聞きました。言語も食事も宗教も違う数カ国の人びとが、いかに一つになって仕事をするか、その答えは、名の信仰でした。一人一人の名を覚えて呼びかける、一人一人を大切にすることです。しかし、多元的な人びととの交わりと共に、その違う宗教・思想をどのように考えるかという、諸宗教の問題があります。   そこで諸宗教に対する間違った対応の例を三つ示します。  

   1 古いキリスト教には、「神はある者を救いに選び、他の者を滅びに予定した」という二重予定説があります。これは他宗教と完全分離です。交わりはなく、さばきと優越感だけがあります。しかも聖書的にも間違っています。なぜなら、二重予定を語るローマ書9-11章の最後で、ユダヤ人と異邦人の選びの関係はこう述べられるからです。
「あなたがた(異邦人)が、かっては神に不従順であったが、今は彼ら(ユダヤ人)の不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けた憐れみによって、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのである。すなわち、神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識との富は、そのさばきは究めがたく、その道ははかりがたい」
(ローマ11:30-32)
選ばれていたユダヤ人は、イエスを十字架につけて不従順になっているが、そのおかげで十字架の救いが成就し、選ばれていなかった異邦人が救われるようになった。このように、救いと選びとは、弁証法的に互い違いに進み、結局、「すべての人を不従順の中に閉じ込めた神は、すべての人を憐れむ救いの神である」と結びます。  

   2 次は、その正反対の日本的相対主義です。富士山に登るにいろいろな道があるが、結局、山上で同じ月を見る。宗教はいろいろあるが、結局は同じことになると。これでは信仰・宗教が、一種の(同じ月を見る)手段になってしまいます。二重予定説の正反対で、日本的あいまいさです。
   聖書ではこうです。
「神はすべての人が救われて真理を悟るにいたることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない」
(Ⅰテモテ2:4-6)
すべての人が救いにはいるのは、神が唯一で神と人との仲保者も一人だからです。八百万の神々の相対主義ではありません。  

   3 神学者バルトは言います。宗教とは、人間的手段で救いを得ることで、宗教はすべて不信仰、しかし、福音は宗教ではなく、キリストにあるいのちです、と。しかし、「宗教はすべて不信仰」とは、聖書にありません。パウロは、アテネで、「知られざる神に」という祭壇を見たとき、あなたがた知らないで拝んでいた神を教えてあげようと言っています。決してそれは不信仰だとは言いませんでした。その宗教の真理を突き詰めて行けば、キリストの真理に達すると言っているのです。 
   聖書はどう書いているか、今日の聖句の新約を見てください。これは三つに分けられます。
  • 1 「律法をもたない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである」。聖書を知らなくても、その人には、「自然のままで、自分自身の律法がある」。それは良心の律法で、聖書の教えと一致する場合がある。
  • 2 「彼らは律法の要求がその心に記されていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである」。良心の律法によって、自らからの行いを吟味することができる。
  • 3 「そしてこれらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人びとの隠れた事がらをさばかれるその日に、明かにされるであろう」。良心の律法も、「自然宗教」ではなく、やがて最後の日に、キリストによって、すべてが明かになる時がくるのです。
 
  キリストの真理は確かですが、それを今の私が完全に達成している訳ではありません。今の自分より、神から見たら立派な隠れたキリスト者がいるかも知れません。それを明らかにしてくださるのは、終末のキリストです。私は、まだ完全ではないが、キリストに捕らえられています。そこで宗教的対話が成り立ちます。信仰の生涯は、この継続ではないでしょうか。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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