6月27日(日)「真 の 障 害」説教要旨

           聖句
旧約 「患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、その住まいは宿営の外でなければならない」
  (レビ記13:45-46)

  新約 「ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまづいて言った、『みここころでしたら、きよめていただけるのですが』。イエスは深く憐れみ、手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう。きよくなれ』と言われた。するとらい病がただちに去って、その人はきよくなった。イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、『何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人びとに証明しなさい』。しかし、彼は出て行って、自分の身に起こったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表だっては、町にはいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人びとは方々からイエスのところにぞくぞくと集まってきた」
  (マルコ1:40-45)


   仙台時代、筋ジストロフィーの人と出会い、共に聖書を学び、そこから教会に来る車椅子の人が増え、洗礼を受ける人も出ました。また精神的障害では、うつの人びとのカウンセリングをして交わりました。世間で人びとは、障害を排除しようとする傾向にあります。それは昔も今も変わりありません。

  レビ記の記述を読んでみてください。それは健常者の社会を作る意図で、似た者同士が集まれば、お互いに快適に過ごせるからです。しかし、それこそ健全な社会ではなく、利己的社会にほかなりません。それは障害のある人にとっては、耐えられないことではないでしょうか。日常の生活では障害の人に出会うことが少ないと言う人もいますが、しかし、かって筋ジストロフィーの青年が言いました。「人間は誰でも、年を取ると障害者になる、したがって僕たちは、先輩だ」と。そうです、年を取ると、誰でも障害者となるのです。とすれば、家にお年寄りがいれば、あるいはいなくても、隣り、友人いくらでも障害の人はいるはずです。まわりにいないと考えるのは、故意に避けているのでしょう。

   また障害の人に会っても、付き合い方が分からないと言う人がいます。しかし、それは普通に付き合えばよいのです。別な言葉で言えば、健常者、障害者の区別なく同じにお付き合いすればよいのです。神学者バルトが、「信仰者と信仰してない人を区別しない、あたかも相手が信仰者のごとく語るべきだ」と語った名言と同じです。イエスのまわりには、いつも病者、障害者がいました。

  その愛の熱心さは、今日の聖句に出ています、「ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまづいて言った、『みここころでしたら、きよめていただけるのですが』。イエスは深く憐れみ、手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう。きよくなれ』と言われた」。

  律法では、レビ記にあるように、この病者は人びとから離れていなくてはならないのに、反対にイエスはまず第一に「深く憐れみ」、彼を愛したのです。それは眺めている遠くからの愛ではなく、病者、障害者に近寄り、さらに手を伸ばし、彼にさわります。実に丁寧です。そして言葉をかけます。これは「受け入れる」行為にほかなりません。精神的にせよ、身体的にせよ、障害のある人は「受け入れられる」ことを望んでいます。

  イエスはまさに、この「受け入れ」を行ったのです。「受け入れる」時、もう一つ大切なことは、相手を敬意をもって見る、「尊敬する」ことです。尊敬するは英語でrespect(再び見つめる)と言います。もう一度よく見ることです。その人の中に何かよいもの、すばらしいものがないか見直すことです。私も障害ある人にすばらしいものを見いだしたことがしばしばあります。その時、出会いと対話が始まります。

   神学者モルトマンは兄が重度の障害で、ヒットラーの時代に施設で死に至りました。彼はその経験を通して、デアコニー(愛の奉仕)について書いています。「デアコニーは人間の中にある壁を取り除き、克服することである。すべての分離されたものが『再び見いだされる』、それが現実的な和解のつとめである」。「十字架の下にあるデアコニーは、苦しみを分かち合うこと、苦しみを受け入れること、苦しみを引き受けることを意味する。それは『我(われ)』がその不安と共に日ごとに死ぬことを含んでいる。それゆえ十字架の下にあるデアコニーは、よみがえられた方の現臨とその力において出来事となる」。

  我が死ぬ時、出来事が起こります。「いやしの交わりは、障害をもった人びとが、その孤立から解放されて、自らの固有の生において承認されるようになることを求めます」。そして「いやしの交わりは、障害をもたない人びとが、その偏狭な自己追求と生の不安から解放されて、自らの固有の生において承認されるようになることを求めます」。こうして「いやしの交わりは、私たちに託されている世界に、ますます人間性と友情が広がって、私たちすべてが生を愛することを再び学ぶことを、神の愛から、共にあることと互いのためにあることを受け取ることを求めるのです」。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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