6月6日(日)「 神 の 和 解 」説教要旨

           聖句
旧約 「彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分をとがの供え物となす時、その子孫を見ることができ、その命を長くすることができる、かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわが僕はその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う」
  (イザヤ53:9-11)

  新約 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらのことは、神から出ている。神はキリストによって、私たちをご自分に和解させ、かつ和解の務めを私たちに授けてくださった。すなわち神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、私たちに和解の福音をゆだねられたのである」
  (Ⅱコリント5:17-19)
 

   神との和解とは、人間の罪を前提としています。人間の罪をまず知って、隣人と和解して、初めて神と和解することができます。しかし、逆にまず神と和解しなければ、人と和解することはできません。相互関係です。      

   私たちの生活には三つの層があります。第一お金や物の物質的世界です。しかし、もし世界が、金と物質だけの世界だったら、何も味気もない、計算づくの冷たい世界になります。その上にもう一つの世界があります。それは人情とか信頼の世界です。家族の関係、それは親しい、暖かい世界です。お金だけの世界で仕事をしていても、家に帰ると、暖かい、親身の家族の和があります。それは大切な層であります。しかし、人間の世界は、その人情味のある家族的社会だけではありません。その上にもう一つの層があります。      

   たとえば、もし一家の支えが突然ガンで召されたなら、どうでしょう。そこには、全く別な世界が現れてきます。それは宗教的世界です。神さまの世界です。罪とか死とか、出会いとか、苦悩の世界は、宗教による解決を求めています。この三つの世界は関係しあっています。商売をしている人が、一か八か、失敗か成功かという時に遭遇します。その時、宗教的になります。宗教は、第一にも第二の人情的世界にもあるのです。       

   パウロは今、
「私たちは今からのち、誰をも肉にしたがって知ることをしません」
と言いました。「肉によって知っていた」とは、お金の世界、物質的世界の考え方で知っていたという意味です。霊によるとは、最上層の宗教的世界の知り方を言うのです。彼は以前は、キリストをもそういう知り方をしていた。しかし、今は、そうではありません。宗教的世界が開かれてきました。    

   パウロはダマスコで、生きたキリストに出会い根本的回心をした時以来、別な世界が開けてきたのです。自分の誇りが打ちのめされ、罪人のかしらとして自覚しました。キリストにあって肉に死んだ今は、どこそこの大学の出だとか、金持ちだとか、頭がよいといった類いのことは一切、肉的なこととして消え去ってゆきました。  
   「神が、イエスの十字架に目を開かせ、パウロ自身、このお方が私のために、またすべての人のために、死んでくださったことを知り、イエスの十字架において根本的に変えられた時」、もはや肉にしたがってイエスを見ないという変化が起こりました。こうした変化が、私たちにも必要です。肉で測っているうちは、私たちの中に優劣があり、争いがあり、上下があります。  
   しかし、霊で測っておれば、それらは消えてしまいます。肉とは、一言で言って、自分中心の、自己にとらわれた物の見方です。霊とは、それに反して、自己を離れ、神を中心にものを見る見方です。その変化、それは大きな変化です。それは新らしい創造です。  

   「和解」とは、原語(カタラッソー)では「転換(チエンジ)」を意味する言葉です。ふつうは「敵意から友情へチエンジする」意味です。しかし、宗教的意味では、私たちの中にあった罪が、キリストの上にチェンジし、キリストのものであった「義」が、私たちのものになる、この「交換、転換」にほかなりません。チェンジなしに、和解することはできません。  
   私たちは、和解というと、互いに歩み寄ることと考えていませんか。それは単なる譲歩であって、真の和解ではありません。和解とはチェンジにほかなりません。イエス・キリストは、私たちの罪を、自分の上に負われて、ご自身の義を、私たちに与え、チェンジしたのです。このチェンジは、血を流すほどの、苦しみを生みました。「よろず和をもって貴しとす」式の和は、文句を言わないで皆の和を大切にしよう。そこには、個人の尊厳も、真理の貴さもありません。    

   真の和解、それは私たちの宗教的精進の結果でしょうか。そうではありません。この新しいものは、実に「誰でもキリストにあるなら、新しい創造です、古いものは過ぎ去り、ごらんなさい、すべてのものが新しくなりました。 しかし、これらすべては神から出ているのです」とあるように、「誰でも」です、誰にでもあてはまるのです。それはただ神からくるものだからです。 その時、どうしても起こらなければならないことがあります。「古いものが過ぎ去る」ことです。古い罪の人間は過ぎ去りました。    

   さらに和解とはすべてのものとの和解です。「世」とは、全宇宙です。ピリピ人への手紙では、
「天上のもの、地上のもの、地下のもの、すべてがイエスの御名にひざまずき」(2:10)
と述べています。「世」とは、ただ人間だけの世界ではありません。その時、私の生は変わります。私の兄弟も、悩んでいる人も、いや兎も、木の葉一枚も、大切な生命と化します。全和解が問題となります。私たちが一つ一つのものを大切にするのは、ただ資源に限りがあるからではありません。神の新しい世界、新しい天は、この今ある地と一つとされるからです。
「神の造られたものはみなよいものであって、感謝して受ける時、捨てるべきものはありません」(Ⅰテモテ四・四)
こうして日々死んだ人間は、日々新たに生きはじめます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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