5月23日(日)「 聖霊の交わり 」説教要旨

           聖句
旧約 「その時、主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし、主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた」
  (列王上19:11-12)

  新約 「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべての内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」
  (エペソ4:5)
 

   「神はどこにいるのか、神を見せてくれ、そうしたら信じよう」と言う人がいます。ルターは「父なる神は隠れた神だ」と言いました。しかし、隠れた神を見せてくれという人のために、神はご自分を低くして、人の姿を取りました。
「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事と思われず、かえって自分を低くして、人間の姿になられた」(ピリピ2:6)
  神の人間に対する愛です。当時律法学者が厳しい律法の体系を作り、これに従わない者は「罪人」としました。罪人とは犯罪者でなく、この律法学者の作った体系に入り切らない「落ちこぼれ」のことです。しかし、キリストは、罪人や取税人の友になり、落ちこぼれを拾われました。
「健康な人には医者はいらない、いるのは病人だけである。私が来たのは、罪人を立ち返らせ悔い改めに導くためである」
  「一人の悔い改めた者のために、天に喜びがある」
と言われました。      

  この態度は当時律法学者には、律法違反と映り、彼らはついにキリストを十字架にかけて殺しました。いつの時代にも、律法主義者、原理主義者はいます。しかし、神はこの十字架こそ、罪人の救いのしるしとされました。それは価値なき者への愛です。十字架の死後、イエスはよみがえって、多くの弟子たちに現れ、「価値なき者への愛の勝利」を示しました。十字架で失望し、ちりちりになっていた弟子たちの信仰は、復活で新しく回復し、新たな伝道の勇気を得てキリストの信仰がひろまりました。   

  しかし今度は、「イエス・キリストは二千年も前の方で、私たちはその姿を見、その声を聞くことはできない」と言う人のために、神は聖霊を用意されました。
「聖霊によらなければ、だれもイエス・キリストを主であると知ることができない」(Ⅰコリント12:3)
聖霊は、私たちに二千年前のキリストを、私の中に再現してくださる神です。
「すべてのものの上にあり(父)、すべてのものを貫き(子)、すべての内にいます(聖霊)、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:5)
これが父・子・聖霊なる三位一体の神であります。
「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせてくださるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14:16)
聖霊は真理を知らせる神であります。「慰め主」と言われます。
「御霊もまた弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊自ら、言葉に表せない切なるうめきをもってとりなしてくださる」(ローマ8:26)
聖霊の業は、「とりなし」です。それは外からでなく内から働く神、私たちの内にいます神であります。 ではどのようにして、この私たちの内に働く神をいただくのでしょうか。祈り以外にありません。
「天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊を賜らないことがあろうか」(ルカ 11:13)
    聖霊をいただく祈りは、二階座敷で「心をあわせ、ひたすら」祈る祈りでなければなりません。祈りに集中する祈りです。すぐにではなくても、忘れたころ、神は、聖霊を送ってくださいます。例外はありません。なぜ忘れたころなのでしょう。「聖霊を自由に所有することはできない、聖霊があなたのすべてを所有したもう」とあるように、あなたや祈り求めが主になるのでなく、聖霊が主となるためなのです。もう聖霊は、私には来ないと思う時、聖霊は突然あなたを襲います。それは静かに鳩のように下ることもあります。しかし、ペンテコステの時のように、火のように激しく下ることもあります。   

  
「その時、主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし、主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた」(列王上19:11-12)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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