5月2日(日)「 イエスとの出会い 」説教要旨

           聖句
旧約 「わたしは、失せたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついてものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う」
  (エゼキエル34:16)

  新約 「さてイエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。  

  それでイエスを見るために、前の方に走っていって、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。イエスは、その場所にこられたとき、上を見上げて言われた、「ザアカイよ、急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」。そこでザアカイは急いで降りてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。人びとはみな、これを見てつぶやき、『彼は罪人の家にはいって客となった』と言った。    

  ザアカイは立って主に言った。「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。イエスは彼に言われた、「今日、救いはこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」
  (ルカ19:1-10)
 

    イエスとの出会いには、決定的瞬間があります。初めイエスは、ただキリスト教の開祖で偉い人ぐらいに思っていました。しかし、ある時から、
「もはや私が生きているのではない、キリストが私のうちにあって生きている」(ガラテヤ2:29)
ようになります。パウロは、イエスを「肉によって」でなく「霊によって知る」のだと言いました。私たちは、キリストが生きていた時代に生まれていたら、「生きたイエスにお会いできる」と思いませんか。  
   しかし、キリストの時代にも、パリサイ人のように、キリストを理解せず、反対していた人もいたのです。「出会い」とは、時、所を同じにすることにだけよりません。キルケゴールこれを「同時性」と申しました。生けるキリストを霊をもって知ることは、時・所を越えて同時的なのです。   

   今ザアカイを考えて見ましょう。第一彼には、劣等感コンプレックスがありました。ローマ政府のために、税金取り立て請負業をしていたのです。民衆からは嫌われていました。「取税人・罪人」といっしょにされました。しかし、イエスは、民衆から嫌われた「取税人・罪人」と食事し、「取税人・罪人の友」とさえ言われたのです。   
   こうしてザアカイも劣等感の固まりから、高い木の上に登り、上からイエスを見下ろそうとしました。何と気持ちの良いことでしょう。ふだん自分を馬鹿にしていた連中が、高い木の上から見下ろせるのですから。こうして彼は、得意になり、自分で自分に夢中になったことでしょう。     

   しかし、ここに驚くべきことが起こりました。イエスは、その木の下まで来ると、
「ザアカイ、急いで下りてきなさい。今日わたしは、あなたの家に泊まることにしている」
と言いました。木の上に登って得意になったザアカイは、実はイエス・キリストから遠く離れていたのです。彼の家に泊まるつもりのイエスを知らなかったのですから。ザアカイの意地と見栄で固めたかたくなな心は、実はイエスの心とは遠くかけ離れていたのです。     
   私たちの劣等感、傲慢はいつも高い木に登って、自分だけ得意になっているかもしれませんが、それこそキリストの御心とは、かけ離れたものなのです。そこにはキリストとの「同時性」がありません。   

   キリストは、「無理に気張った木の上に登ったあなたではなく、ありのままのあなたのところに、わたしは泊まりたいのだ」と。「わたしはこの低さにいる、ここにいる、あなたのすぐそばそばにいる、あえて無理して背のびする必要はない」と言われるのです。   
   ザアカイは、自分の意地という木、背伸びという木からおりました。彼は地上に立ち、キリストと同じ平面に降り立ちました。人となり十字架にかかり、取税人、罪人といっしょに食事なさるイエス・キリストと同じ平面に立ちました。皆さん、信仰とは、このように一切の人間な思惑、見栄、意地、背伸びを捨てて、キリストの立っておられる、地上に神が造られたままの人間として立つことではないでしょうか。   

   ザアカイは、木の上から見ています。私たちもキリストを木の上からながめていませんか。しかも、高い木の上から、自分は安全地帯から、背伸びしてながめていませんか。   
   しかし、キルケゴールは、キリスト教は臨床講義だと言いました。確かに講義は行われている、しかし、それは瀕死の病人の枕元で行われている、と。それは「ながめるキリスト教」でなく、「生きたキリスト教」です。私たちザアカイは、木の上にいます。しかし、イエスは私たちの家に入ろうとします。「出会い」は、私たちの行為というよりか、イエス・キリストの行為です。「今日、あなたの家に泊まることにしているから」。   
   私たちは上からイエスを見下ろしていませんか。客観的に学問的に、イエス・キリストを見ようとしています。しかし、この「イエスとの出会い」は、イエスの行為です。出会いは、向こう側からです。   

   けれども、私たちの行為がない訳ではありません。「私は戸の外に立って叩く。もし私の声を聞いて、戸を開くならば、私はうちに入って、彼と食を共にしよう」(黙示録3:20)。聖餐は、イエス・キリストの行為です。   
   けれども、私たちの行為もあります。「取って食べる」ことです。信仰は心で信じることです。しかし、私たちのすることもあります。「はい、と言って告白し、受入れる」ことです。戸を開くなら、キリストがわが家に入るのです。     

   多くの人びとは、人間のかっての姿を見、ザアカイは、罪人だといいます。わたしたちはあれは不良だ、駄目な奴だと言います。しかし、イエス・キリストは人間の過去ではなく、将来をごらんになります。人が変わりうることを信じ、神の豊かな恵みが注がれることを喜ばれます。     
   イエスの目は、つねに、人間を越えて、神の恵みの行為に向けられます。今、神の救いがザアカイのみではなく、その家全体に広がりました。人間にだけ注がれる眼は、すぐ劣等感か優越感になります。そしてまたぞろわたしたちを縛り始めるのがおちです。神の恵みのみは、いつもわたしたちを解放し、変化させ、向上させてくれます。神の自由な御旨に眼を開かせるからであります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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