4月25日(日)「 神は別なお方である 」説教要旨

           聖句
旧約 「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ。主は豊かにゆるしをあたえられる。わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがた思いよりも高い」
  (イザヤ55:6-9)

  新約 「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」
  (使徒行伝13:41)
 

   私たちは、神をどのように考えているでしょうか。たとえば、天に白い髭のおじいさんのような方がいて、地上を、そして私たちすべてを支配している。あるいは、絶対とか永遠という言葉で表されるような、抽象的な観念として神がいますとか、いろいろに考えているかも知れません。    

   しかし、神は、それとは別なお方です。私たちが、神は床の間の置物のように、いつまでも永遠にそこにおられる、それはいつまでも変わらないと思っていたら、大きな間違いです。神は、あなたが考えるような神とは別なお方です。        
   また評論家が、神はいるとか、いないとか、まことしやかな理由をつけて言う時、神は、そのように評論家の考える者とは、全く違うお方です。今日の旧約聖書には、イザヤの言葉として、
「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」
とあります。私たちが、神さまにはいつでもお会いできる、永遠のお方なのだからと思ってのんびりしているなら、大違いです。神にはお会いできる時がある。よく定年退職して、ゆくりしたら教会に来ようという人がいます。しかし、それまで生きていると誰が保証するのですか。あなたが生きているように、神さまも生きています。神に出会う時があります。その時を逃したら、永遠に来ないかも知れません。
「近くおられるうちに呼び求めよ」
です。   

   神はある時、私たちに遠く離れている、しかし、その時、あなたが求めるなら、神はあなたのすぐ近くに来られる。神は、近くにおられるのではありません。神は来られるのです。あなたのところに。ですからあなたは「求めなくてはなりません」。
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん」
  
   しかし、神を床の間の置物のように、いつでもそこにあると思っているなら、神はそこにはいません。神は私たちが本来考えていたものとは、全く違うのです。あなたは神を五ぐらいと考えていますか、違います。神は十かもしれないし、いや、百与えてくださるかも知れません。エペソ書には、
「どうか、私たちのうちに働く力にしたがって、私たちが求め思うところの一切を、はるかに越えてかなえてくださることができる方」(3:20)
とあります。だから
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがた思いよりも高い」
と言われるのです。   

   今日の新約聖書にも、
「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」
とあります。神は思ってもみなかったことを行われるのです。「ボルヘルトを初めとして、神は死んだという者は一杯います。あるいは、自分からそれとは気づかずに、神を失っていまった人もいます。そして神の時は、終わりの時である。捕囚の終わり、見捨てられた姿の終わりの時である。打ち続く重苦しい沈黙は破られた。夜回りはこう語るであろう。『夜は終わって、朝が明けそめた。あなたがたが聞こうと思うなら、今来なさい』と」。   

   私たちの考えは、「私たちは見捨てられている」というさばきの考えです。私たちは忘れられてしまった。私たちに未来はないと、私たちは不安げに語ります。しかし、神は、それとは別なお方である。神の考えは、ゆるしと喜びです。あなたがたが「歴史は終わった。過ぎ去った。過去はもどってこない。あなたの運命にゆだねよ。それは変えることができない」と考える。しかし、神の思いは、私たちの夜の思いとは異なります。  

   神とは、「新しさ」です。新しいことを行われる方です。私が全く捨てられたと思ったその時、実は、新しいことが用意された、それが神ではないか。絶望的だった時、先生は「最悪を最善に変えたもう神よ」と祈られました。不思議です。神が導いておられるのです。神は、絶望的な私に「新しいこと」を、「全く新しいこと」をなしたもう神です。神は別なお方です。
「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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