4月4日(日)「死は勝利に飲まれてしまった」説教要旨

           聖句
旧約 「彼はまたわたしに言われた、これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす」
  (エゼキエル37:4-5)

  新約 「『死は勝利に飲まれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし、感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」
  (Ⅰコリント15:55-58)


   近年、死は私たちにとって身近かになりました。確かに医療技術は発達し平均年齢は上昇しました。にもかかわらず私たちは今から、三、四十年前と比べて、若い人を含め死を身近かに感じるようになりました。少なくとも二つ理由があると思います。

  一つは、ガンです。若い人が突然ガンなって死にます。もう一つは、テロです。秋葉原の事件のように、道を歩いていて、突然、狂った人が、無差別に人を殺すことがあります。面白いことに、死が身近かになった原因と、長生きになったことの原因とが同じく、科学技術の発達なのです。
  ガンが増えたのは、農薬、化学調味料、化学的添加物が増えたせいです。テロが起こるのは、科学技術がテクノクラシーで精神的な価値を教えないからです。人間を科学的に分析するだけで、人にいのちの尊さを教えないからです。  

  科学技術は、この死の身近かさを克服できません。科学技術は目に見えるものしか扱わないからです。別な言葉で言えば、科学技術は、永遠とか、生命の意味とか、生きることの喜びを教えないからです。  
  科学技術社会の合言葉は、「効率、便利、安価」です。生命とは何でしょうか。ドイツ語で「生きる(レーベン)」は「愛する(リーベン)」と似ています、英語で言えば、リヴ(生きる)とラヴ(愛する)です。「生きる喜び」を感じている。生きがいがあることです。必ずしも長寿を意味しません。  
  「豊かに、喜びに満ちて」生きるなら、たとい短命でも、それは、「生きている」ことです。「あなたが死に際して、自分の生涯を振り返って、それが永遠に向かっているなら、あなたは幸いです。人は二度とこの世に生れることはないのでから」と、キルケゴールは言いました。いつも永遠なる愛に連なっている生は、幸せだし生きがいのある、喜びに満ちた人生です。  

  聖書ではどう言っているでしょう。  
「死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし、感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである」
  私たちの生は、罪に満ち満ちています。憎む、ねたむ、怒る、偽る、盗む、それらは、永遠あるいは愛とは正反対で、地上的なものに捕らわれることです。しかし、イエスは、この私たちの中の罪に勝利されました。  

  どういうふうに勝利されたのでしょうか。イエスは一人の犯罪人に、
「今日あなたは、わたしと一緒に天国にある」
と言われ、自分を十字架につける者たちには、
「父よ彼らをゆるしてやってください、そのやっていることが分からないのですから」
と言いました。  
  キリストの十字架の前には、罪はありません。なぜなら、十字架の上で、その罪を負っているのですから。私が重い荷物で苦労していたら、誰かがそれを代わりに背負って行ったら、私は軽くなるでしょう。それはイエス・キリストの愛が、非常に大きく、罪をも包み越えるほどだからです。
  私たちは、このイエス・キリストの愛を越えるほどの、罪を犯すことができないのです。「死は勝利に飲まれてしまった」とは、「罪は愛に飲まれてしまった」というのと並行した意味です。この十字架と罪と愛の関係なしに、私たちは今日、イエス・キリストの復活を考えることはできません。愛している者、愛されていると感じる者は、自殺しません。   

  さらにドイツ語の生きる(レーベン)は、からだ(ライプ)から来ていると言います。生きることはからだをもつことです。パウロは、復活を植物の種粒と成長した実りの関係にたとえました。  
  私たちは、ある種をみて、それがどんな木になるか分かりません。それがどんな新しい実を実らせるか分かりません。
「死人は朽ちない者によみがえらされ、私たちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものにを着、この死ぬものは、必ず死なないものを着ることになるからである」。
種粒自体は、確かになくなります、死にます、しかし、新しいからだができます。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなん。もし死なば多く実を結びます」
私たちも朽ちるからだでまかれています。地上のからだは朽ちます、しかし、この朽ちるものは、必ず朽ちないものを着ます。種粒と同じように、私たちは新しいからだで、霊のからだによみがえります。「私たちはからだのよみがえりを信じます」。  

  そのように新しい復活のからだがあるのだから、「愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。復活のいのち、永遠のいのちを知って、初めて私たちは今の生に精を出すことができます。だからこの世に無駄な労苦はありません。イエス・キリストの復活によって、すべてのことに意味が出てきます。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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