3月28日(日)「聖土曜日」説教要旨

           聖句
旧約 「しかも彼を砕くことは、主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う」
  (イザヤ53:10-11)

  新約 「ここにヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引き取りか方を願い出て、それを取り下ろして亜麻布に包み、まだ誰も葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた」
  (ルカ23:50-54)


   「聖金曜日」と言うのは、キリストが十字架にかかった金曜日です。その日をいれて三日目、つまり日曜日キリストは復活します。しかし、土曜日はどうでしょう。「聖土曜日」という人は、あまりいません。しかし、この日は注目すべき日です。この日、ペテロ、ヨハネなど普通の弟子たちは出てきません。皆、逃げてしまったのです。

   その時、名乗り出た人が一人いました。アリマタヤのヨセフと言います。この日はこれまで隠れていた弟子が、現れる日です。十字架が彼らに勇気を与えました。十字架は、「何も恐れることはない」ことを教えます。なぜなら、神の子が私たちの罪のために死なれたのですから。ヨセフのしたことは、イエスの葬りでした。しかも、丁寧な葬りでした。「まだ誰も葬ったことのない、岩を掘って造った、新しい墓にイエスを葬ったのです」。

   このことは、大変勇気がいったことと思います。身分が高い人ほど勇気がいります。これまでの弟子たちでさえ、「その人を知らず」と言ったのに、身分も地位もかなぐり捨て、キリストのために最後の奉仕をしたのです。十字架には、そのような力があります。ここには信仰を大胆に告白するのでもなく、信仰を否認するのでもなく、そっと行為で示す、第三の信仰が見られます。  

   この日は、何もない日です。「無」と言ってもよいです。「沈黙」とも言えます。「もし言葉の背後に沈黙がなければ、言葉は、深さを失います」。「沈黙は決して消極的なものではありません。沈黙とは、単に語らないことではありません。沈黙は、一つの積極的なもの、一つの充実した世界として、独立自存しているものなのです」(ピカート)。    

   この「聖土曜日」は、隠れた人が現れる日であると共に、「沈黙」の日です。ある意味で「沈黙、無」の意味を教える日とも言えるでしょう。 さらにその日は、もう一つ大切なことを語っています。使徒信条にあるキリストが「よみにまで下った」日です。このよみへの下降は、Ⅰペテロ3:18以下に出てきます。
「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なる方であるのに、不義なる人びとのために、ひとたび罪のゆえに死なれた。こうして彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」
   

   キリストは、実にマイナスの世界に、地獄に入って行かれたのです。それが「聖土曜日」という一日なのです。私たちにも、この聖土曜日がなくてよいでしょうか。語ってばかり、動いてばかり、走っているばかり、目まぐるしくせず、むしろ留まって沈黙し、祈りましょう。何もない日をもちましょう。それはきっと何にもまして充実した日となるでしょう。

   キリストは、地獄で何しをしたのでしょう。不信仰のために地獄におちた霊たちのために、福音を宣教しに行かれたのです。何と広大無辺な、巨大な神の愛の福音ではないでしょうか。「霊によって生きた時、イエスは、人間の行くことのできないところまで行くことができました。今、イエスは霊たちのために使者となりました。なぜなら、死んで行った人びとの中にも、神の恵みを必要とする人、自由と光の中にではなく、獄に捕らわれている者たちがいたからです」。

   神を否定した人の救いはどうか、それはユダに見られます。イエスの十二人の弟子の中に、どうしてユダがいるのか、しかし、ペテロだっていばれません。
「私はあなたのために死ぬようなことがあっても、決してあなたを捨てません」
と言ったのに、いざ危機が迫ると、
「私はその人を知らない」
と言いました。それは信仰を捨てたことになりませんか。信仰ということが、こういう矛盾を含んでいることを、この聖土曜日が示しています。

   信仰は、この矛盾があるゆえ、すばらしく、しかも現実的です。 聖土曜日は、第一に、立場上信仰を言い表すことのできなかった人が、あらゆる困難、見栄、栄誉をかなぐり捨てて、行為で信仰をあらわすと言う、矛盾の日です。その日は、第二に、言葉の宗教が、沈黙の一日をもつ、矛盾の日でもあります。第三に、神の子キリストが、信仰を否定した人びとのところに行って、信仰を宣べ伝えました。この矛盾によって、私たちは立っているのです。この矛盾は、ある意味で恵みの大きさです。あらゆるものを包む、神の偉大さです  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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