3月14日(日)「物語りと信仰 」説教要旨

           聖句
旧約 「わが民よ、わが教えを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。これはわれらが先に聞いて知ったこと、また先祖たちが、われらに語り伝えたことである。われらはこれを子孫に隠さず主の栄光あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを、きたるべき代に伝えるであろう」
  (詩編78:1-4)

  新約 「イエスはこのような多くのたとえで、人びとの聞く力にしたがって、御言葉を語られた。たとえによらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた」
  (マルコ4:33-34)


  この頃、面白いことに、非常に学問的な人びとの間に、「物語り」ということが叫ばれ出しました。「物語りの哲学」という本さえあります。昔ならさしずめ、「歴史」と言ったでしょう。
  たとえば学校で教える「世界史」、「日本史」は、「歴史学」にのっとって、学問的に厳密に、資料に照らし、方法論も確立して、一定の歴史観をもって書かれます。高校の歴史教科書でも、そうです。

  しかし、聖書は、そういう歴史書ではありません。聖書は、一部分を除いて、全部「物語り」です。 ある教会では、聖書の真理のみを語るべきで、自分の体験など語ってはいけないと言われます。しかし、聖書自体、体験を物語っているのです。
  パウロは、その手紙の中で、しばしば、自分の経験体験を物語っています。それどころか、福音書はすべて、イエスに関する物語りで埋め尽くされています。


  「わが民よ、わが教えを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。わたしは口を開いてんたとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。これはわれらが先に聞いて知ったこと、また先祖たちが、われらに語り伝えたことである。われらはこれを子孫に隠さず主の栄光あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを、きたるべき代に伝えるであろう」
  (詩編78:1-4)
こう言われているように、旧約聖書も、ほとんど物語りです。Ⅰコリント11:23に


  「わたしは主から受けたことをあなたがたに伝えたのである」
とあるように、聖餐は、物語の伝承であります。  

  とつとつと物語る老人の話、子供に話す物語り、それがよいのです。信仰の物語りを、ふつう「証し」と言います。たとえば第二次世界大戦史も意味あるでしょうが、それよりか、戦争で、命を懸けた人の物語りの方が、はるかに真に迫り、迫力があります。  

  物語りは、第一にそれは実際に体験した本人の言葉であること。第二に、その本人が目の前で語っていること。第三に、聞いた人が質問できること。第四に、そこには語り手の苦悩、喜び、感謝、信仰が滲み出て、直接聞く者に訴えること、ある人は、物語りは、「ただ過去を振り返って示すだけでなく、それは未来をも指し示す」と言っています。たとえば戦争体験の物語りが、戦争はこれほど、凄惨で無意味なものだという教えを含んでおれば、新しい平和へのメッセージになるのです。また病気の体験、手術の経験、それは健康への方向を指し示さないでしょうか。  

  信仰は、物語ります、それは成功談だけでなく、失敗談でもよいのです。なぜなら、失敗は、成功への道しるべになるからです。また物語ることは、語った人に解放感を味じ合わせます。お話を聞いてもらうことが、いやしに通じるのと同じです。さらに言えば、物語りは、愚痴や、こぼし話になってもよいのです。立派なお話でなくてはならないということはありません。ただ一つ、自分を大きく見せる、自慢話であってはなりません。  

  第六に、失敗談にせよ、成功談にせよ、語り伝えることは、「これを子孫に隠さず主の栄光あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを、きたるべき代に伝えるであろう」とあるように、結果的に、それは神の栄光あるみわざを伝えることになるからです。ただし、自分が出過ぎる自慢話は、自分に栄光を帰し、神の栄光は隠れてしまうでしょう。  

  ベンヤミンは言いました、「歴史はすべて勝者の歴史である。勝者の歴史があるとすれば、敗者の歴史もなくてはならない。アウシュヴィッツ・ヒロシマで死んだ人は、無駄に死んだのか、そうではない、死者の無言の叫びを聞き取り、物語ることは生者のつとめである」。それは歴史にはなりません。敗者の物語りです。「物語るということは、死者の眼差しと共に、現在および将来の他者の眼差しに裏打ちされています」。物語りとは、死者と生者の対話でもあるのです。だから


  「イエスは、死者と生者の主となるために死んでよみがえられたのです」(ローマ14:7)
 
  そしてこの聖句の前後の言葉は、こうです、


  「私たちのうち誰ひとり、自分のために生きる者はいない。誰ひとり自分のために死ぬ者はいない。私たちは生きるのも主のためにイエス・キリスト、死ぬのも主のために死ぬ。だから生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものなのである」


  イエスは弟子たちの聞く力にしたがって、たとえで語られたとあります。歴史は、一般を相手に語ります。しかし、物語りは、相手がいます。それは「誰々さん」です。物語りの中に出てくるのも、誰々さんです。子供にも語れます。お母さんが、子供に物語りを話します。子供は、お話をしてとせがみます。「相手の聞く力にしたがって」語るのが、物語りなのです。  

  物語りは、自分自身の話でなくても構いません。自分が聞いた話でも構いません。しかし、真実を語り、作り話をしてはなりません。「心の真実、ありのまま、これいかに貴いかな。真実に心の内にあることを語るなら、たといその語るところ、いかに拙劣なるも、必ず彼に聞かんとする人あるべし」(カーライル)。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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