2月28日(日)「私たちの限界 」説教要旨

           聖句
旧約 「わたしはすべての全きことに限りあることを見ました。しかし、あなたの戒めは限り なく広いのです」
  (詩編119:96)

  新約 「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべ てのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分 の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」
  (Ⅰコリント10:23-24)


    「私たちの限界」と聞くと、「人間には誰でも、それぞれ限界というものがあって致し方ないのだ」というメッセージに聞こえませんか。しかし、そうではありません。今日の聖書「わたしはすべての全きことに限りあることを見ました」。この言葉には、消極的面と積極的な面の二つがあります。まず否定的消極面から。  

    ある歌手が、苦労して世に出、やっとのこと名声を博し、ちやほやされ、今度は御調子に乗って、得意になり歌いました。名声が上がれば上がるほど、忙しくなり、からだをこき使い、ついに限界がきて、倒れて入院するはめになります。  
   リルケというドイツの詩人は、「人は名声という落とし穴に陥れる」と言っています。私たちも「御調子に乗る」ことがないでしょうか。仕事が大変うまく行って、いい気になっているうちに、突然、限界が来ることは、よくあることです。  
   その時、この言葉を思い出してください。
「すべての全きことに限りあることを見た」
新約聖書でいえば、
「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」
限界というものがあります。囲碁で攻めてばかりいると、いつのまにか囲まれて、大損をすることがあります。こうして「ひかえて打つ」ということを学びます。うまく行っている時ほど、謙虚さが必要なのです。

    しかし、今日の聖書は、ただ「あなたの限界を知れ」という消極的な教えではありません。神学者バルトはこう言っています、「私たちには、できることできないこととがあります。この私にもできないことがあります。皆さんにもできないことがあるでしょう。しかし、できないことはできない。できることはできる。それだけではありません。『できないことはできない』とは、その反面、しかし、『できることはできる』という恵みの面をもっています。できることをできるまでやろうではありませんか。そうすれば、今までできなかったことが、できるようになることがあります」。これが積極面です。  

    聖書にも、
「わたしはすべての全きことに限りあることを見ました。しかし、あなたの戒めは限りなく広いのです」
この後半があることに注意してください。その恵みを忘れたなら、私たちはただ消極的面のみ見て、「あまり過大なことに手を出すな」と否定的になってしまいます。
   しかし、そうではありません。八木重吉の詩に「ゆるしうる者をゆるす。それならどこに神の力がいるのか、ゆるしえざる者をゆるす。そこから先は神のためだと知らぬか」というのがあります。これが私たちの限界を越える神の力なのです。「できるだけのことをする。それならどこに神の力がいるのか。できる限界までやる、そこから先は神のためだと知らぬか」. 「

    タラント」のたとえでは(マタイ25:14)、主人が、それぞれの能力に応じて、ある者に5タラント、ある者には2タラント、最後の者には1タラントを与えました。5タラントの者は、商売して、ほかにもう5タラントもうけ、2タラントの者もほかにもう2タラントもうけました。しかし、1タラントの者は、それを地面に隠しておいたのです。
   まず私たちは、「私たちの限界」と言っても、人によって差がある。不公平だというのでしょうか。それが1タラントを地面に隠しておいた僕です。「少ない」、「不公平だ」と思う人は、今日の「わたしはすべての全きことに限りあることを見ました。しかし、あなたの戒めは限りなく広いのです」の本当の意味が分からないのです。5タラントの者の限界が、5タラントとすれば、それは大きなハードルを与えられたことになりませんか。2タラントの人は、2タラントでよいのです。ハードルははるかに低いのです。「多く与えられた者は、多く求められるのです」。
   とすれば、1タラントの人は、1タラントもうければよいはずです。しかし、彼はすねてしまって、自分のタラントを生かし切れませんでした。つまり、彼は自分自身とその与えられた物に目を奪われ、与え主、神を忘れていました。「できるだけのことをする。それならどこに神の力がいるのか。できる限界までやる、そこから先は神のためだと知らぬか」。神の与えた限界というものがあります。それは人によって違います。違いは問題ではありません。
   自分の限界までやること、そこまで精一杯を尽くすこと、そのことが、信仰の道であります。その時、私たちは、その自分自身の限界線で、生ける神に出会うのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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