1月17日(日)「人生の忘れ物(忘却の精神」説教要旨

           聖句
 聖句 「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころにあなたを掘り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある」
  (イザヤ49:15-16)

    「兄弟たちよ、わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」 
  (ピリピ3:13-16)


  私たちはよく、「物忘れ」します。特に歳を取ると、物忘れがひどくなります。いや、歳を取らなくても、若い時でも、よく知っている人の名前が出てこないことはあります。忘れるというのは、人間の能力の中で、記憶力の問題です。
   しかし、「忘れる」ことは、悪い面だけではありません。よい面があります。もしすべてのことを覚えているなら、私たちの頭はパンクしてしまうでしょう。適当に忘れて、初めて新しいことに取り掛かれるのです。
   ですから、パウロは今、 「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」と言います。

  それは「物忘れ」のように、消極的、否定的な「忘れ」でなく、自分から、積極的に「後のものを忘れる」のです。反面それは「前のものに向かって」ゆくためです。したがって前進的、積極的「物忘れ」と言えます。
  旧約聖書では「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」と言っています。これは私たちの忘れに対して、「神が決して忘れない」と言ってくださるのです。
  ボケて来て、もし私たちがキリストも聖霊も父なる神を忘れたら、どうでしょう。心配は要りません。たといあなたが忘れても、神はあなたを忘れることはない。私たちが神を知らなくても、「インマヌエル、神われらと共に」この神の客観的な真実は変わらないのです。
  そこでは私中心の主観的信仰から、神中心の客観的信仰へと転換し、ある意味の悔い改めが起こるのです。それは自己中心の物質主義からの回心でなく、主観的信仰から客観的信仰へ、自分中心の信仰から神中心の信仰への転換です。  

  パウロは「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」と、ただ前向きというだけでなく、その「前向き」は、「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得るため」です。  
  ここにも私たちだけの主観的信仰でなく、上に召して下さる神の賞与があるのです。パウロは自分を途上の人として捕らえています。自分は完成した人ではない。信仰の完成など、この地上であるはずがありません。パウロは、自分は追い求めつつある人だと言います。走って賞を得る、ちょうどオリンピックの選手のような者です。ランナーです。  

  しかし、自分をこのように途上の人と見る人は、他人に対しても同じように、不完全で途上の人と見るのではないでしょうか。自分は途上の人で、他人は完成した人と見て、自分には甘い基準、人には辛い基準では不見識でいけません。他人をも、今、見ているところによって判断せず。将来に期待するでしょう。  
  「キリスト者の本質は、自分が何になったかではなく、何になるかということにある」と言われます。信仰とは、「見ぬものをまこととし、来るべき者を確信する」とすれば、それは自己にも他人にも当てはまることです。  
  「この子はすばらしいものになる」、この将来への期待が教育では大切です。草木を植える人は、今撒くもの、今収穫できると思って撒きはしません。必ず将来なるものを信じて撒くのです。    

  しかし、信仰者は、今は未熟だから待つというだけではなく、パウロは、「そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからだ」と言っています。つまり、私たちは未熟で途上の人ですが、そこですでにキリストに捕らえられている中で前進するのです。「すでに」捕らえられている事実があるのです。そこに「いまだ」がくるのです。この途中は、ただ未熟でなく、すでに捕らえられている中での途中です。

  私たちはまだ未熟で途上にありますが、それはすでにキリスト・イエスに捕らえられている中で、前進するのです。私たちの信仰は、すでに完成した、悟り澄ました境地ではありません。今、現在、私の達したところは、それが何であれ、キリストの捕らえの中にあります。
  そうかと言って、ただ不完全なのではありません。完全をいただいているけれども、それは約束としてです。婚約、約束手形のように、それはいつか成就をもっています。

  最後にパウロは、「達しえたところにしたがって進む」と結んでいます。永遠の今という、信仰の実存主義ではありません。今日はここまで、しかし、明日へと前進する一歩です。一歩一歩です。「初めて信じた時よりも、私たちの救いが近づいた」(ローマ13:11)とあります。私たちには、将来があるのです。その時、「後のものを忘れ」前進して行かねばなりません。たといボケて神さまを忘れても、神さまは決して私を忘れないと言ってくださるのですから。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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