1月3日(日)「初めが肝心」説教要旨

            創世記1:1-4 ヨハネ1:1-5
「初めに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、  神の霊が 水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。   神はその光を見て良とされた」
    (創世記1:1-4)
  
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共に  あった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれに  よらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は  やみの中に輝いている。そしてやみはこれに勝たなかった」
    (ヨハネ1:1-5)
 

     年の初め、私たちはよく「一年の計は元旦にあり」と言います。私はいつも日記をつけていたころは、一年の初めにその年やりたいこと五つ六つ書いておきました。年末に振り返って見ると、ほっとんどができていません。  
    人生は初めに思った通りには行かないのです。まず病気をします。病気が年頭の計画にある人は、いないでしょう。次に計画が自分の能力に余ることを、途中で気づくこともあります。人は自分の能力よりも大きな計画を立てるものです。  
    伝道の書に、  
「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は、神のなさる業を初めから終わりまで見きわめることはできない」
    (3:11)
とあります。箴言には
「人には多くの計画あり、されど神の旨のみ立つ」(19:21)
とあります。  

     ヨハネは「初めにことばがあった」と言います。聖書は、初めに計画があったとは言いません。ロゴス、言葉があったのです。
    ドイツの有名作家ミヒャエル・エンデに「あなたの作家生活の中で、一番大切な言葉は何でしたか」と聞いたところ、「それはLauschen(耳をそばだてて聞く)だ」という答えです。言ってみれば、「全身を耳にして傾聴する」意味です。
    あなたの人生の中で、「全身を耳にして傾聴する」ような言葉を聞いたことがありますか。今、ヨハネ福音書が、「初めに言葉あり」という時、その言葉は、私たちが全精神を傾け、渾身をふりしぼって聞くべき言葉です。神の言葉、神の愛そのものである言葉です。  

     現代社会は、ある意味で言葉が氾濫しています。水は大切なもので、これは命の源です。しかし、その水が氾濫していたらどうでしょう。洪水です。同じように言葉は命です.  
    しかし、これが洪水のように氾濫していたら、やたらに「言葉、言葉、言葉・・・」です。  
    それでうんざりする人のために、ピカートは、『沈黙の世界』という本を書きました。彼によると、背後に沈黙のない言葉は、本当の言葉ではないのです。「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうでしょう。愛の中には、言葉よりも多くの沈黙があります。『黙って!あなたの言葉がきこえるように』」。母親の涙、恋人の沈黙、それは何にもかえがたい いのちです。   

     そしてその「言葉は神と共にあった」。「共に」が言葉の本質です。それは「共に」が愛の本質であるのと同じです。「インマヌエル、神われらと共に」はクリスマスの訪れでした。本当の言葉は、私たちを「共に」結びます、それは本当の愛が私たちを結ぶのと同じです。
    このヨハネ福音書の「神と共に」は、ただ英語のwithではありません。「向き合って共にです」。ただ一緒に同じ場所にいるだけではありません。向き合っているのです。
    私たち夫婦や親子はどうでしょう。ただいっしょにいるだけなら、何か大切なものが欠けていないでしょうか。ロゴスなるキリストは神とは一つです、しかも、互いに内在しあっています。それでこの
「言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った」(1:14)
と言われるのです。
      

     すると初めにあるのは、計画でも、単なる言葉でもなく、生きた現実です。愛ある言葉、それは現実であり、現実を動かします。それをヨハネは、
「すべのものはこれによってできた。できたものうち一つとしてこれよらないものはなかった」
    「それにはいのちがあり、そのいのちは人の光であった」と言っているのです。  
    出来事には、出会うということがあります。それは人でも、その人の形骸ではありません。その人の現実です。クリスマスに赤ちゃんがいっぱいきました。若い夫と妻、そこに赤ちゃんができました。それは新しい現実です。それは新しいものを生みます。それが生きた出会いであり、現実です。出会いは生きています。そこに命があります。命があれば、それは光り輝きます。それは闇に勝ちます。  
    今、教会に世界に、この現実がなくてはなりません。そのいのちが必要です。  

     ただヨハネは、一方的楽観主義者ではありません。その現実に闇もともなうことを知っているからです。
「光は闇に照る。しかし、闇は光に勝たなかった」
とあります。それは単なる言葉ではいけません。沈黙の背景のある、現実の言葉、言葉の現実でなければなりません。  
    ではそこで闇を克服する力は何でしょうか。「罪のゆるし」です。イエス・キリストが勝利したのも、十字架の上で
「父よ彼らをゆるしてやってください。そのやっていることが、分からないからです」
と祈った、この神の愛、罪をゆるす愛こそ、闇に勝つ光だったのです。楽観主義を越えた、神の愛の現実それが人の胸を打つのです。  
    「兄弟よ、罪の前にたじろいてはなりません。罪のままの人間を愛しなさい。これこそ神の愛に似たものです」(ドストエフスキー)。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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