12月20日(日)「クリスマスをめぐる人びと」説教要旨

            イザヤ7:14 ルカ2:1-14

    クリスマスの物語を読むと、東の博士たちや、野にいる羊飼いなど、何かロマンティクな、伽噺的な物語のように思われます。しかし、彼らは、当時の信仰・宗教から異質な人びとばかりです。
  東の博士はユダヤの国から見たら、遠く東のアラビヤの人びとです、「救いは異邦人に来」、イエスは「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15)で育ちました。当時のイスラエルの宗教の中心人物と言ったら、神殿の祭司、律法に精通している律法学者です。しかし、彼らは救い主に会いに、ベツレヘムの馬小屋まで来ませんでした。神殿や王の宮殿で生まれたなら、かしこまって、威儀を正しいて行ったかも知れません。彼らは、ベツレヘムの馬小屋など馬鹿にしていました。  

  次に羊飼も、当時身分の低い人とされていました。しかし、夜、野宿しながら羊の番をしていた、身分の低い羊飼いたちが、一番先に救い主の誕生に出会ったのです。主の使いが最初に現れたのも、彼らにでした。  
  彼らは非常に恐れました。しかし、その恐れを取り除いたのも御使いでした。「  
「恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」
と。クリスマスをめぐる人びとは、全部、イスラエルの救いに遠い人びとばかりです。仏教では「縁なき衆生は救いがたし」と言いますが、キリストは、その「縁のない衆生」こそ、救いの対象となさるのです。    

  どうしてそうなのでしょう。馬小屋、小さなベツレヘム、このことは、信仰の救い、キリストの救いは、すべて「私たちの側には何の条件もなしに」起こる。神が事を成される時、私たちの側には何もないような仕方でなされることを表しています。「この信仰に無縁な人」はいないのです。  

  この事実をパウロは、  
「すべての人は罪を犯したゆえに、神の栄光を受けるに足りない。しかし、神の義が律法とは別に、現れた。それはイエス・キリストの信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこには何の差別もない」
  (ローマ3:22)
と言い表しています。  

  私は最近ある本を感動をもって読みました。「キリスト教は、徹底した個人主義と徹底した普遍主義である。それは政治に距離を置き、中立、いやむしろ超越している。それゆえに、政治に根本的な影響を与える」とありました。  
  それは何でしょう。二つのことです。一つは、キリスト教は徹底した個人主義である。それは別な言葉で言えば、あなたの一個の魂は、神のまえに無限の価値がある。それは何ものをもってしても代えがたい。もう一つは、キリスト教は徹底した普遍主義である。すべての人、地上に住むいっさいの人は、誰であれ、平等である。小さな子供でも、貧しい人でも、区別や差別はない。  
  この二つが、クリスマスの使信なのです。異質な人びとが、ふさわしくない人びとが、馬小屋のイエスを訪ねて来るとは、自然、動物もその中に入ります。馬小屋には垣根や壁はありません。  

  イエスが生まれた当時、律法主義というのがありました。私たちの社会は、ある律法、掟、枠組みをもっています。しかし、それが最大限大きくなれば、個の魂の自由は犯されるでしょう。また律法に詳しい専門家が貴ばれ、そうでないない人との間に差別が起こるでしょう。  
  しかし、イエスは律法を知らない、そして律法主義者から「罪人」と言われた人びとと、食事をしました。  
「健やかな人は医者は要らない。いるのは病人である。私が来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人・病人を招くためである」
と言いました。

  このイエスの現実、一人も落ちこぼれなく、誰一人も差別されないということは、イエスは決して政治的に働きかけませんでしたが、それはこの世の社会・政治に多大な影響を与えました。当時の律法主義という壁に囲まれたの中で、このような自由な考えは受け入れらず、イエスは十字架につけられました。しかし、その十字架こそ、私たちの自由のしるしです。  

  中世において、この掟、枠組みが大きくなると、ルターが出て、ただ信仰だけで救われる、そして「万人がみな祭司」だと言いました。枠組みを大切にする人びとに、彼はいのちをねらわれましたが、宗教改革を成し遂げました。  
  それと同じ名前の、マルチン・ルーサー・キング牧師は、黒人の差別のあるのはおかしい。「私には夢がある」と、一人一人の魂が貴ばれ、差別のない社会を望みました。その時、彼は白人の権利をも守るため、非暴力を貫きました。自らは銃弾に倒れましたが、そのことは実現しました。イエスの馬小屋の精神です。   

  私たちは、今、その自由と平等を完全には獲得していませんが、神の御国に向かって進んで行くでしょう。それは「いまだ」です。しかし、「すでに」クリスマスの出来事で示されています。私たちは、常に、この「いまだ」の中に、「すでに」をもっているのです。クリスマスとは、そういうことです。

  それはベツレヘムの馬小屋に起こったことですが、彼は、政治に無関係のようですし、政治にかかわってもいませんが、同時に、この世の政治を変えてきましたし、これからも私たちの生活を新しく変えて行くでしょう。それは、彼があなたの一個の魂をこよなく貴び、私たちの誰をも差別せず、万人は平等に造られたことを宣言したからです。馬小屋のイエスは、誰でも受け入れます。あなたもまた受け入れられます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.