12月13日(日)「いつ来るか」説教要旨

            イザヤ30:15 マタイ11:1-6

    この前、「待つ」ということの「いつ」は、「父なる神がご自身の権威におかれているので、あなたがたの知るべきことではない」と学びました。
  しかし、私たちの人生で、「いつ」が問題になる、大きな二つの出来事があります。一つは聖霊を受けて、イエス・キリストを救い主として受け入れる時です。御霊による洗礼です。さらにもう一つは、最後の日、イエス・キリストの再来の日はいつかという問題です。 そしてこの後の問題は、自分の死の問題と関係があります。死を通して各人は天国でイエス・キリストにお会いするからです。

  私たちは、「もし自分の死期を知ることができたら」と思いませんか。しかし、死期を知らないことが、神の最大の恵みなのです。なぜって、もし何年何月何時何分に死ぬと分かっていたら、私たちの人生は、非常に緩んだ生活になるか、反対に緊張しづくめの生活になるかどちらかでしょう。一寸先が分からないからこそ、今日の一日、今の一瞬一瞬が、まったく生き生きとした時となるのではないでしょうか。「人生において、分からない」、そのことが神の恵みである場合が多いのです。  

  ブルムハルトは、庭に誰も乗ったことのない、四頭だての馬車を用意したと言います。 それはイエス・キリストがいらした時、最初にお迎えするためだと言いました。ということは、彼にとって毎日毎日、毎瞬毎瞬、神の国に向かっている大切な1日1日、1瞬1瞬であったのです。
  その場合、「いつか」は、「今ここ」になります。時は今、場所はここです。すべてを神の御手にゆだね、今ここに精を出す、だからパウロは、
「死は勝利に飲まれてしまった。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜ったのである。だから愛する兄弟たちよ、堅くたって動かされず、いつも全力を注いで主の業に励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦は無駄になることはないと、あなたがたは知っているからである」
  (Ⅰコリント15:55以下)
と言っているのです。

  今日の聖書は、バプテスマのヨハネが出てきます、彼は最もアドヴァントに近い人です。イエス・キリストを指し示したからです。「わたしより力ある方が、わたしの後に来られます」と。彼はまた激しい荒野の説教者です。「斧ははや木の根におかれている」と叫びました。
  しかし、今牢獄につながれています。この確信に満ちた、あの預言者の姿はどこにあるのでしょう。昨日は確信に満ちた人も、明日は動揺し、何のたよりもなく苦しまなくてはなりません。これが信仰生活の現実です。  

  確かに静かに落ち着いた信仰に生きる時もあります。しかし、信仰は生きた流れです。水は、たまり水になると腐り始めます。  
  私たちは、神様や救い主をいつも、ポケットにしまい、いつでも取り出せるわけではありません。毎日ご飯を食べても、おなかがまたすき、三度三度食べ直さなくてはならないよう、信仰の食べだめや貯金はできません。年頭に一年分祈っておくことなどできるはずがありません。  
  モーセもエレミヤも、エリヤも決して信仰の強者ではありません。モーセは召しを断りました。エレミヤもそうです。「私はまだ年若いです」と言いました。エリヤにいたっては、「主よ、わたしの命を取ってください。私は先祖に勝る者ではありません」と言って弱音を吐きます。  

  しかし、間違わないでください。私たちは、この弱さの中で、いつも新しく神の召しを受けて、立ち上がらせられるのです。 今、ヨハネはこうした疑問にもんもんとしていた訳ではありません。彼は当のイエス・キリストに、その問いをぶつけました。「来るべき方はあなたですか」。  
  もし自分の中で問いあぐんでいたなら、堂々巡りをするだけでしょう。また人に聞くなら、いろいろな答えが返ってきて、一層迷うだけでしょう。もし人に聞くという形式を通して、神に聞くのでなかったら、何の役にも立たないでしょう。  

  ヨハネは、実に、世界でただ一人のお方に聞きました。ヨハネは動揺したというよりか、待てなかったのでしょう。「いつか」という問いです。救い主がくれば、すべてばっさりと木を切り倒すように、いっぺんに解決すると思っていたのでしょう。  
  このヨハネには、あのブルムハルトの四頭だての馬車がありませんでした。ペンテコスを待つ人も、忍耐深く待ちました。また聖霊を受ければ解決という訳にはゆきません。あの聖霊を受けた教会が、どれほど困難に逢着したか、戦い迫害を強いられたか知るべきです。  
「私たちは神の国に入るには多くの苦難をへなければならない」(使徒行伝14:22)
とパウロは申しました。 「いつ」という問いの答えは、したがって「今、今日、ここで」となります。  

  今、主の御声を聞いているその時、全力を上げなさい。    
「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた。『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば、力を得る』。しかし、あなたがたはこのことを好まなかった」
  (イザヤ30:15)
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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